幾望報

きねもておもちつけ

カクヨム餅

4月から重い腰を上げてWeb小説の連載を始めた。

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連載ったって誰から頼まれているわけでもない、自分で勝手にやっているのだ。

でもネタとして何年も温めてきたものが形になっていくのは純粋に嬉しい。

温めすぎてちょっと腐りかけているんだが、それを気にしていては一生日の目を見ることはないとわかっているので、まあとにかく外に出してみたわけだ。

 

評価はどうかというと、クソボケの極みである。

ボケが。クソ。

ザコがよ。

 

多くの人にとってつまらんもんを書いているんだろうなあと思うが、かといってその程度でやめられるものではないことも改めて確認できたから、まあよかった。

30過ぎてもティーンズの自意識と闘っとるやつ、おるか?

僕は多分しばらくこんな感じだ。やれるだけやってみたい。

よく考えたら実兄もまだ売れないバンドマンをやっているので、魂の形が一緒なのかもしれない。

でも定職にはついたほうがいいと思うよ。

 

さてどうせ趣味でやっているのだ、投稿してもPVが伸びないことを気に病むまい、とは思いつつも、原因があるならそれを排除できるに越したことはない。

なんといっても読まれなければ小説の体をなさないことは承知している。
今は周りの温かい目でなんとか見てもらっているに過ぎない。
ありがたいことだが、それだけに甘んじては腐るような気がして、なにかしたいと思った。

というわけでカクヨム内でいろいろ先達の方法を盗むこととした。

みんな苦労してんだなあ。ありがてえありがてえ。大事に読むよ。

 

実際読まれない理由としてはいくつか考えられる。


読まれる以前に、作品の存在が人の目に触れるという段階から追っていく。

①見つかっていない

…日夜何百何千の作品が放たれるこのインターネッツで知らない誰かに見つけてもらえる可能性はほぼない。知らない人に見つかるにはどうすればというと、まあたいていの人は評価のある作品を選ぶわけだから、評価を得ることが必要だ。カクヨムではトップページに「注目の作品」「ランキング」「人気タグ」が上の方に表示されているので、何か新しい作品をという人は大抵ここから探すのだろう。

では見つかりもしないのにどうやって評価を得に行くのか?

とんちみたいな話だが、評価を得ていなくても人の目に触れる方法がある。それはすでに知っている人を利用することだ。まあつまり周囲への宣伝と営業だ。Twitterだのなんでも使ってな。ただこれをやりすぎると最初は良くても普通に嫌われる。別に友達だからってそいつの文章まで全部読みたいわけじゃあないからな。そんなに暇じゃねえしよ。とかみんな思ってるのだ。実兄の例があるからよくわかるなあ!

いや、僕は兄のことは好きだよ。

だからより確実なのは、読んでくれそうな人を探して個々に繋がりを作ることだろう。要するに作家同士の繋がりだ。相手も自分も読まれることと評価されることを求めているからwin-winだ。こうして初めましてー!みたいな挨拶から交流が育まれていくわけだ。評価がもらえたねえ。レビューももらえたねえ。いいことづくめだねえ。

ただこの場合自分が求めるだけのことを相手にしなければならない。それも、いくつも評価が欲しいわけだから、いくつも作品を見て評価し、いくつもの作家と交流しなければならない。なんかmixi時代に戻った気分だよ。

そんなんやってられるかというのが本音のところだ。

じゃあそれをせずにPV数稼いでみろよって話なのだが、結局3ヶ月経っても100PVそこらしか稼げていないクソザコだからこんなことを書く羽目になっているのだ。苦しいぜ。

でもそれに踏み込まないのは単にコミュニケーションが苦手というだけじゃあない。また兄の例を出してあれだが、バンドマンだって同じことをやる。自分のバンドを知ってもらうために他のバンドと交流したり、次のチケットを買ってもらうために他のバンドのライブにいったりする。確かにそうした中で本当に通じえる仲間ができるのならそれはもう願ってもないことだと思う。

ただいずれの業界でも狭い範囲で互いに評価し合って承認を得ることは本質的に資源の食い合いでしかないのだ。それが新規顧客を呼び込む起爆剤になればよいが、ならなかったらただただジリ貧だ。売れない者同士が承認をやり取りして輪が完結してしまうのを何かの漫画でダサイクルだかいう表現がされていたが、まさにそれにあたる。

そうはなりたくない。が、人には読んでもらいたい。

大体人とわざわざ交流するなら承認や評価というものを目的とせずその人自身を目的としてお付き合いしたいものだ。でなければ空っぽだ。この歳でそれをやるのはさすがに心身にこたえるよ。

だからその線には一歩踏み込めないでいる。

結局は自意識の問題なのだとわかった。

自分を納得させるいい方法を今後探す。

 

 

②読む気にならない

…さて第一の壁がデカすぎることがよくわかったところで、悩んでいても仕方がないので次の段階だ。仮に誰かに見つかったとしよう!ありがてえなあ。

カクヨムではキャッチフレーズが設定できるし、あらすじなどの内容も同時にサムネイルとして表示される。作品自体が人の視界に入った時に読むか読まざるかを決めるにはタイトルはもとよりサムネとあらすじを含んだ一瞬の視覚情報が大切になるということだろう。なんだかどこもかしこもインスタ然としてきたな。

一画面1秒もかけずにすいすいスワイプされてしまう昨今の流れを考えると、短い文字数でインパクトを残してまず手を止めねばならないが、それはそれで難しい。コピーライターじゃあないんだから。

これについては実際に読んでくれた人にアドバイスでも仰ぐのがいいところかもしれん。聞いてみよう。

 

 

③読みにくい

…見つかって、読む気になって、ページを開いてくれたとしよう。ありがてえなあ。

とりあえずこれに対処することにした。ここまでたどり着いた人には真摯に向き合いたいもんだ。

どうもWeb小説にはそれなりの形式があるらしいな。

つまり横書きやスマホ上のレイアウトを前提とした視認性・可読性の確保が求められる。

多くの先輩作家は改行とセリフを増やすことでそれらを行っているようだ。
とはいえそもそも、かつて自分が読んできたセリフばかりのラノベ然とした形式を、なんとか、もそっと大衆小説然とできんかと思って筆を執っているので、地の文はあまり減らしたくない。

キャラクター小説を書いておきながら贅沢な話かもしれない。

そういうわけでとりあえず改行をバキバキに増やしてみることとした。

いつもはPCで縦書きしているので不自然極まりないが、貼り付けた後に適宜間を開けてみる。まあ内容が大きく変わることはないのだから、それで読む人が読みやすいと思ってくれるなら、行間ぐらいどんどん開けてやればよいのだ。

形式にこだわるほどご立派な小説を書いてはいない。

 

 

④読んでもつまらん

…これはもう、な。

知るかーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!

んなもん仕方がないので今後に期待しながらやっていくしかない。

傑作が生えてくるのを待って何年も鬱々と過ごすのはもうやめにしたいからそもそも公開に踏み切ったのだ。才能のことはひとまず諦めて駄作でもとにかく書く。

それがあたしのロックンロールアチチュードってわけ。

 

 

 

 

つまりオタクは自意識が強いという話だが、

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今はつまらんくてもいい。読んでくれると僕は嬉しい。という話である。

子餅③

幼児退行はもう古い。時代は乳児退行だ。

 

思い切って1月から3か月間の育児休業を取得した。

4月からの仕事が不安ではあるが、世間の仕事始めが軌道に乗った今、日中家で子供と過ごしていることは非常に心を穏やかにさせてくれる。はずだった。

そうして気づくことに、育児で一番難しいことは育児そのものではなく、育児を含めた家庭生活を本来的に他者である配偶者とバトらずこなすことができるかという点にあるのだ。

が、まあそのことはいい。言っても誰も得しないからな。

だから極力妻に触れないようにして生活を振り返る。

 

子供が家にいるが季節が季節で寒いのと家の中で風邪が蔓延していたのとあって1月前半はほとんど家の中で過ごさせてしまった。まず朝家を出る必要がなくなったので動き出すのが非常に遅くなったのも原因だ。

自分は夜9時前に長男と床にはいるとだいたい夜中3~5時の間に目覚めるようになったので、そのタイミングでミルクを作って次男坊に飲ませる。

ちょうど講談社の漫画アプリが4時にチケット更新なので、ミルクをやりながら(もちろん飲む様子は気にしながら)片手で「自分で買うほどでもないが名前は聞いたことのある漫画」を読む。『食糧人類』をよんだ。絵はうまいが人物造形が雑でたいしたことなかった。『戦車椅子』を読んだ。王ドロボウJINGみたいな世界観で好き。今は『娘の友達』を読んでいる。成人男性と未成年女性の恋愛ものは自分の中の倫理が暴れ出すので強く避けてきたのだがこれはホラーと聞いて読んでみた。ホラーだ。毒親系も最近の流行りだなあと思う。

飲ませたあとも眠ければ二度寝するが、だいたいは眼が冴えているのでそのまま残していた家事を済ませて朝活に入る。

家事のついでにコーヒーを淹れて、自室に運ぶ。パソコンをつけて寝ている間のTwitterを遡って監視し、ついぞその時間に流れることのないタイムラインをみてほっとする。SNSは毒だ。情報が際限なく流れ込んでくるし、自分もその流れに乗ろうとしてしまう。無意味とわかっていても時間を費やしてしまう…つまり実によくできたシステムだ。無意味な時間ほど楽しいものはない!だがやりたいことが何もできなくなるから、今はこのくらいの距離感がいいようだ。僕は意味と楽しみを同時に求めている。

パソコンは一旦置いておいて、図書館で借りている本を早く返さなければいけないので、コーヒーを飲みながら読む。源氏物語の英訳を日本語訳したもので、54帖が4冊にまとめられているため、1冊700ページのハードカバーだ。装丁がクリムトなので気に入っている。本当なら自分でも欲しいがちょっとかさばるので今は保留中だ。とりあえずこの1巻を読まなければいけないので必死で読んでいる。根を詰めすぎて嫌になるのを避けてだいたい一日1帖ずつ読む。

その後も時間が余っている時は積んでいる漫画を読む。出産に際して引っ越しも予定していたことから半年ほど新刊を買っていなかったのだ。チェンソーマンとヒロアカと峠鬼はなんとか追いついた。次は金カム最終3巻かな…

 

 

さて長男の赤ちゃん返りが酷い。

よく大人の行動を指して幼児退行などと言ったりするがあんなものはマジでしょうもないザコだ。ドブに捨ててよい。

問題は幼児が乳児に退行したときだ。

これは困る。そもそも子供の成長速度は大人と比するべくもなく凄まじいのだが、それだけに大人の期待は高まる一方だ。少し前に初めてできるようになったことは、いつのまにか当然できることになってしまっている。最初に断っておくがこれは絶対に大人の認識と対応力の問題だ。子供が悪いわけがない。全部大人が悪い。大人はクソ。腹を切れ。

赤ちゃん返り、という現象自体は一般的なもので、どの子供にも起こることらしい。ただその表出のされ方は様々で、単にわがままを繰り返したり感情を爆発させたりということもあるが、下の子がいるときなどは親の注意を自分に向けるため下の子を攻撃したり危険にさらしたりする場合もある。うちの場合は、幸いにしてこのパターンは観測されていない。が、それも今のうちはというだけの話で、今後も注意するに越したことはない。

赤ちゃん返りが起動している間はどうするべきか?

別に育児書を読んだわけではないのだが、自分はとにかく叱ったりせずに子供の要望を受け入れ、彼が振る舞いたいようにさせてやればよいという話を聞いたので、なんとかそれを思い出しながら対応しようとしている。が、そんなにうまくいくわけがない。大人も人間だ。

先述のように大人は子どもに期待してしまう。いやいや、君それできるやんなんでなんで?私の心はでっかいクエスチョンマークだ。

できるよできるよ。やってみようよ。一緒にやろうよ。色んな声掛けをしてみるが彼の心は頑なである。結局こちらがやる羽目になる。

よく育児指南として「否定語を使わず、肯定的な声掛けをする」というのがある。「○○しないで!」ではなく「××しようね」と言い換えるのだが……いや、もちろんやっている。やってはいるが、そんなことでうまくことが運べば苦労はないのだ。むしろ子供の方が否定語を使いこなしていて「いや!」「だめ!」「しないの!」「できない!」「わかんない!」を繰り返す。なんで?

おいクソがァ…話が違うじゃねえかてめえ育児評論家のみなさんがよ。俺の子供を預けるぞオラ。嘘。預けない。可愛いから私が見ます。クソが。

 

 

しかるに結局のところ大人が子供についていけないだけなのだ。

子供が大人についていけるわけがない。成長もすれば退行もする。生まれてまだ数年も経っとらんのだ。このことを常に思い返さねばならない。

ただ焦りもまた常にある。子の発達段階は正常か、それに適した対応ができているのか。目の前で目まぐるしく変わる対象を捉えながら日々の暮らしも維持しないといけない。結局後者が優先してしまって子供が蔑ろにされる。子が抱っこしてというときに抱いてあげられない親の何が親か?貴様腹を切れ。無念と言っとる場合があるか。

大人も人間だと書いたが、大人が人間でいようとする間、子供は何でいればよいのか。

子どもは子どもだ。それ以上の仮面はまだいらん。笑ったり泣き叫んだりすればよい。

何もかもを捨てて子を抱く己が人間でないというのなら人間をやめろという話である。

 

ここで筋肉少女帯の曲を思い出す。

少年の頃!お前はテレビを見なかったのか!?

彼らはどうした答えろ!

ならばお前もそれをやれ

 

(子が起きたので終わる)

子餅②

うっかりしているうちに二人目の子どもを迎えることとなった。

コミットすればするほど過酷な育児の実態はさて置き、子らはKAWAIIの一言だが、なにぶん大人の体調が悪い。これは困った。元気がないと100%のKAWAIGARIができない。非常に困ったのでここ数ヶ月あちこちの病院を回っている。不養生のツケが回ってきた感がある。これを書いている今も永遠かと思われる咳が出ているので病院にいる。

 

嘆いていても仕方がないので、発語が随分上達した長男のKAWAII言葉を思い出して気を紛らわせようと思う。

 

①こんにちは

挨拶の基本である。すでにおはようと言って手を振ったりありがとうとお辞儀をしたりできるようになった長男だが、何と言ってもこんにちはの可愛さが頭抜けている。何回言ってもこれは「こんちんたん」になる。

どんぐりころころどんぐりこと上手に歌っていても、ひとたびドジョウが出てきたらこんちんたんである。

なんか知らんが童謡のテンポを速くしてデスボみたいに喉を鳴らす歌い方も覚えてきたんだが、それでもごんぢんだん!っつってる。

なんだ?こんちんたんって。

いや、こんちんたんはこんちんたんですね。

KAWAII

 

②おくすり

息子も息子で何度か病院のお世話になっているのでお薬を飲む機会がしばしばあり、もう覚えたらしい。あのパラフィン紙?に分けられた粉末。自分が子供の頃と同じ匂いがする。

これはめいちゃんのおじゃまたくしよろしく幼児によくある語の転倒なのだが、おくすりはおすくりという。自分が咳をしていると「パパもおすくりのむー?」と言って自分のコップを差し出してくれる。もしかして薬師如来かな?ありがてえありがてえ…

 

③ごちそうさまでした

機嫌よくやってくれるときもあれば、もう好きなものがないからいいです…とこちらの反応を伺いながら手を合わせるときもあり。でも彼の場合そんなに長い言葉は言えないのでいい具合にアレンジされて「ごちまった」になった。

「ごちまった!🤗」「ごちまった…🥺」など表情のバリエーションがあるのだがいつ聞いてもKAWAIIのでお残ししてても許しそうになる。ごちまったしたあとにフルーツとか好きなものだけ追加で食べようとするとパパが長期戦に入る。パパ、君にでっかくなってほしいからよ…

とはいえ無理に口にねじ込むわけにも味の濃い調味料をベタベタ乗せるわけにもいかないので、色々試行錯誤しながらやっている。最近有効なのはDanger Zoneを歌いながら食べ残しを皿から発艦させて「俺についてくるんだ。指示器を確認…機首を上げろ!」などと言ってお口に着艦させる方法と、絵本みたいに本人の気持ちと動きを言語化してから「〇〇君は大きくお口を開けました」と先に言ってしまう方法。なんとか機嫌を直してノッてくれることが多い。朝はそんなことやってられんのでメニューが勝負のすべてになる。

子どもがご飯を食べるようになってからごちまったの大切さを再確認した。特に自分が作ったときなんか笑顔で言われると嬉しいもんな、ごちまった。

ちなみにいただきますはもっと適当で「いったうー」とか言ってる。お手手合わせてるからいいよ。早く食べたいからね。

 

④はじまりはじまり

保育園で絵本を読んでもらうようになってから家でも前より読むようになって、なんなら読み聞かせをしてくれるようになった。

みんなはされたことある?2歳児から読み聞かせ。健やかな成長の様子が目から耳から脳に直接届くッッ

もちろんこちらにも読み聞かせを求めたり半々なんだけど、最近家に迎えた新生児相手にも読んであげてるので微笑ましい限り。

でも「はまちゅりはまちゅり」って言ってるので最初何をアピールしてるのかわからなくてパパ混乱しました。でもはまちゅりのほうがいいと思います。かわいいからね。

 

まだあるんだけど息子の可愛さを振り返っていたら診察が終わったので今日はこの辺にしといてやろう。

発達途上のいずれ直ってしまう癖が見聞きできるのは今だけだから一緒の時間は大事に過ごしたいが、咳してると一緒に歌ったり踊ったりできないからな。

健康診断で血中脂質も注意されたことだしさっしと咳を治して体力をつけるぞ。子育ては体力が全てに優先する。

 

死の餅

近頃死についてよく考える。

直接的にはやはりやがてくる父の死期についてということになるが(いつか書いた通り難病でありなおのこと進行している)、どうしても息子の死についても考える。散歩の度に考えながら手を引く。

己の死はもちろん考える。妻の死についても結構考える。

これらが死んだらどうする?

どうもせんそんなもの。でも考える。どうもできんが。

 

そうこうしているうちに伯父が亡くなった。急性白血病だった。気のやさしい人だった。

そこまで深く交流してきたわけではなかったがコロナ禍のうちに急に弱って亡くなっていったので言い知れぬ寂しさがあり、何より息子に先立たれた形の祖母が気がかりだ。

こんな言い方をしてはその伯父にも悪いのだが、何といっても伯父の奥さんが以前からあまりいい人ではない。それが伯父の不在にかこつけてより祖母に当たりが強くなったようだった。このままどうも祖母の家を乗っ取る気である。勝手に保険も解約して自分らの都合のいいように運用しているとか聞いた。ここまできてはもうなんもしてやれんことが無念だが、伯父が病院で穏やかに逝ったらしいことだけがまだ救いだ。孫風情ができることは顔を見せに行くぐらいのものだから、いずれ行く。いずれ…。

 

いずれいずれと言っているうちに人は死ぬので困ったものだ。

これは伯父よりも前になるが、年明け早々仕事の同期が亡くなった。前の職場で同じく新規採用として6年間ともに過ごした、一つ上の、ももクロ好きの男だった。

お互い一緒のタイミングで新しい職場へ異動になって、またどこかで一緒になったらよろしくなどと笑い合っていたのにこれだ。

原因はようわからん。なんかわからんが、棺桶の中に横になっておった。

その同期も、同じ職場にいた間に父君を亡くしていた。病だったかと思う。

数年のうちに一家を何人も失う家族の心持ちは想像できない。悲愴な葬式だった。

 

いずれいずれと言ううちに。

とはいえそれは残った側の人間が勝手に計った時間であって実際に生きた人間のそれではない。驚くべきことに人の一生はそれぞれに存在する。いやまこと、驚くべきことに。それぞれに。一生がある。

それぞれのうちにある膨大な数の、なに?存在だよ存在。

死を考えるときこの存在の数をなんか数えとるんだが、

僕はまだ足りないので死にたくないという気持ちでいっぱいだ。

まだなんも足りん。

父はもう足りとるんだろうか。

死にゆく人間のことはなんもわからん。

エア餅

退勤後に街灯のまばらな道を車で帰りながらその日あったことを思い出し、自分がどんな言動をしたかボソボソと再現したり、本当はこうした方がよかったのではないかというifの自分をその場に作り出してボソボソ演じたりということを、どうもたびたび無意識にやっている。

疲れているらしい。近頃また帰りが遅い。

 

いつの間にか息子も2歳になろうとしていて、コミュニケーションのバリエーションが増えてきた。何かを食べるまねをしてはオイチーヨと言ってみたりこちらに何かを食べさせてはオイチーヨと言ってみたり、そういったことはこれまでもあったのだが、少しずつ物を何かに見立てて遊ぶことを覚え始めたようだ。なにやら卵のおもちゃを床に走らせてブーブー言ったりしている。

今日は帰るなりソファーの前に座らされて、ソファーの方を向くように引っ張られ、自分も同じ姿勢で横にきては、何もない座面を真横から見るくらい身を屈めて、何かぶつぶつ言っている。大人の目にはただのソファーでしかないのだが、1歳なんぼの息子はそこに何かを見るらしい。同じように身を屈める。何もないのでふーんと思いながらわからないなりにそうかそうか誘ってくれてありがとうと立ち上がろうとするも、強い力で引き倒されてまた同じ姿勢を求められる。何かを見ているのは確かなのだがルールがわからない。何度か飯を食おうとしたが幾度となく引き戻され、一緒に虚空を見つめてモニョモニョと言うこととなった。残念ながらまだなにも見えてこない。

大人が切り替えについていけないだけで、子供の遊びにはその瞬間瞬間のルールが確かに存在する。そこにイマジナリーな存在が絡んでくるともう収拾がつかない。とはいえ思い返せばそれは物心ついてからも自分がやっていたことだった。向こう10年くらいはよくわからない遊びを目の当たりにするのだろうなと思う。

自分もそうやってきたせいかいまだにイメージ癖が抜けないんだが、これが厄介なことに無意識に発動して、かつわりと脳のCPUを持って行くので、周りの景色がifのイメージに支配されて意識できなくなることもある。運転中に危ないことが何度かあった。どうにかならんものかしらん。

 

眠い。

 

 

読み餅

前回のエントリーから200日が経過したが、その間に何が起こったかというと、特段何も起こっていない。

相変わらず時間がない。というか輪をかけて時間がない。

実は3月までは子育てを理由に時間減での勤務形態だったのだが、4月から完全復帰を選択してしまったとたん、あれよあれよと仕事が増え、残業も当たり前になり、3月までと比べると退勤が毎日4~5時間遅くなった。もちろんその分給料は増えるのだが、いや増えたとて、増えたとて……と思いながら過ごした。

懸念していたのは子どもと過ごす時間がそれだけ短くなることだが、まあなんとか隙間を縫ってペロペロした甲斐あり愛着形成はできているようなので、引き続き濃厚接触の機会を逃さないようにしたい。

とはいえ仕事にかまけて子供と触れ合えないのは我ながら言語道断、増えて給料数万円いかほどのものぞと表情を厳しくしてそれなりに励んだ。おかげで退勤時間は少しずつ早くなりつつある。濃厚接触しつつ子供が早く寝られるためには、大人が頑張らんといかん。などと張り切りすぎた結果腰痛が悪化した。現在リハビリに通っている。

 

そのような具合で結局なんだか時間はない。録画の件数はたまる一方だし、漫画は棚からあふれ平積みされかかっている。ゲームの進捗はほとんどなく、あれほど楽しんでいたサクナヒメも終盤で止まってしまった。かろうじて体調維持のためリングフィットは続けるようにしていたが、これも腰痛でストップした。

子供が着々と大きくなるというだけで自分のことは何一つ進んでいない。結婚したオタクはこうしてじわじわと死に至るのだなという思いを確かにする。

 

いやしかし、何一つは言いすぎた。

余人にとっては微々たることだが、この間に少しだけ本を読めた。

 

・三体

読めた。Ⅰで衝撃を受け、Ⅱ発売に合わせて買うも、気が乗らずずっと寝かせていた。それがもうⅢが出るというので矢も楯もたまらず、Ⅱを読み出した。Ⅲを買って目の前に置いておき、Ⅱを読めばⅢを読める、Ⅱを読めばⅢを読める…と当たり前のことを呪文のように頭で繰り返して、なんとか遅々たる歩みを進めた。非常に面白かった。自身、SF小説の造詣はまったく持ち合わせていないのだが、これまで見てきた漫画やアニメの知識でなんとかかんとか読めたように思う。返す返すいい小説だった。

 

時をかける少女

オタクは古典的名作を読まねばならないという観念のもとそれらを手元に置くところまではよいが、置いてあるだけで満足してしまうので本当によくない生き物だと思う。

読んだ。60年前の作品ということに衝撃を受ける。もちろん、セリフ回しやキャラクター像は時代なりだけども、これまで様々なメディア作品に形を変えて各時代に受け入れられてきただけはある、非常に懐の深い作品だった。実は恥ずかしながら筒井康隆は初めて読んだ。オタクは古典(略)虚航船団や只野教授も手元にはあるので、ちゃんと読もうと思う。

 

・チーズと塩と豆と

前から飛び飛びで読んでいたものを終わらせた。女性作家4名による、ヨーロッパを舞台にした愛と食にまつわるアンソロジー。だいたい主人公が家族を嫌ってたり不倫したりフラれたり喧嘩したりしてる。でもいつもそこには食事がある。どれもいい短編だった。それぞれの作家を大して読んでいないので作者の色まではわからないが、どれも人々の暮らしに根差した視座で食と人間を描いていくので、たは~どんだけ取材したんやろうか、それとも趣味やろうか、かなわんなと思いながら読んだ。美味しそうな料理が山ほど出てくる。ヨーロッパでうまい飯と酒を飲みたいという気持ちになった。

 

食堂かたつむり

今読んでる。やさしい小説だが、主人公が冒頭からひどい目に遭う。今は嫌がらせを受けるところまで読んで気分が落ち込んでる。もう少し健康的な時間に読もうと思う。

 

時間がないないとは言ってもそうした時間は大抵Twitterに食われていることが多い。Twitterを閉じれば読書は進む。しかしながらタイムラインを日々流れるおちんちんやおっぱいといった無為な単語が私の心を癒していることを誰が否定できよう。いったい誰が……

 

要するにオタクはキモく、Twitterと労働は悪という話である。

積み餅

買ったのに何年も読んでいない本がざらにある。積読だ。

学生時代に本当の本当にガチのマジで本を読まなかったことを卒業後から今に至るまでだらだらと後悔し、この歳になってから見よう見まねで目についた岩波文庫をたびたび中古で十冊ぐらい買うのだけれど、どうしたことかこれが1年で1~2冊しか進んでいかない。どうなっているんだ?

困ったことにここ数年は漫画でもそれが増えてきた。

新刊で買ったのにもう何年も本棚に寝かせてある漫画。続刊が出るから買うには買うがまだ1巻が読めていない始末だ。お前本当にどうなっているんだ。

さらにPCで遊べるゲームをセールの度に買っては積み買っては積み、これも何から手を付けてよいのかわからなくなってしまった。しかし勧められたものがあればまた安くなった時に買ってしまう。

テレビの未視聴録画件数も1000件近くある。時間がない。とにかく時間がない。

 

いや時間はあるんだ。時間はある。

でも時間が無いのだ。まこと奇ッ怪な次第である。

 

とにかく消化できるのは購読中の漫画続刊ぐらいで、どうもいろんな分野で新しいものに対して食指が動かなくなってきているのを感じる。あまり良くない傾向だ。

何かで読んだが、脳は外部からの情報で自身に変化が起きようとするとき、非常に大きな負荷とエネルギー消費に見舞われるので、できるだけそうした変化を避けようとする働きがあるんだそうで、それが「難しい本を読むと眠くなる」という状態なんだそうだ。

これは裏を返せば、新しいものになかなか触れられないのは変化に耐え得るエネルギーを保持できていないということなので、まあ自身の生活を省みるにむべなるかなという気がする。まこと本は若いうちに読んでおくべきなのだ。……などと言わずに今すぐにでも読むべきなのだが。

 

しかし、「やる気はやり始めないと湧いてこない」というのも脳の働きとしてよく知られるところだ。考える前に手を出してみるのをやめてはいけないのかもしれない。

 

そういうわけかどういうわけか最近何も考えずに買ってハマってしまったゲームがあって、これを『天穂のサクナヒメ』という。稲作シミュレーションパートとローグライクアクションパートを行ったり来たりする一風変わったゲームで、まあ、わずかな時間を縫うどころか夜中までこじ開けて夜更かししながら稲作に励んでしまうぐらいハマってしまった。稲作が上手くいくと主人公も強くなり、できた米を食べてまた強くなるという、とにかく米を食って体を動かせ、目の前の問題を片付けろ、という内容だ。

パワーだ。米はパワー。あと主人公が可愛い。

この熱を別のコンテンツにも転用できればいいのだが。

 

ひとまず今日は少しだけ録画を消化できた。

麒麟がくる万引き家族を見た。取り調べシーンの長尺ワンカットに引き込まれる。

 

まあ要は、とにかくオタクはTwitterを閉じろと、そういう話だ。