幾望報

きねもておもちつけ

死の餅

近頃死についてよく考える。

直接的にはやはりやがてくる父の死期についてということになるが(いつか書いた通り難病でありなおのこと進行している)、どうしても息子の死についても考える。散歩の度に考えながら手を引く。

己の死はもちろん考える。妻の死についても結構考える。

これらが死んだらどうする?

どうもせんそんなもの。でも考える。どうもできんが。

 

そうこうしているうちに伯父が亡くなった。急性白血病だった。気のやさしい人だった。

そこまで深く交流してきたわけではなかったがコロナ禍のうちに急に弱って亡くなっていったので言い知れぬ寂しさがあり、何より息子に先立たれた形の祖母が気がかりだ。

こんな言い方をしてはその伯父にも悪いのだが、何といっても伯父の奥さんが以前からあまりいい人ではない。それが伯父の不在にかこつけてより祖母に当たりが強くなったようだった。このままどうも祖母の家を乗っ取る気である。勝手に保険も解約して自分らの都合のいいように運用しているとか聞いた。ここまできてはもうなんもしてやれんことが無念だが、伯父が病院で穏やかに逝ったらしいことだけがまだ救いだ。孫風情ができることは顔を見せに行くぐらいのものだから、いずれ行く。いずれ…。

 

いずれいずれと言っているうちに人は死ぬので困ったものだ。

これは伯父よりも前になるが、年明け早々仕事の同期が亡くなった。前の職場で同じく新規採用として6年間ともに過ごした、一つ上の、ももクロ好きの男だった。

お互い一緒のタイミングで新しい職場へ異動になって、またどこかで一緒になったらよろしくなどと笑い合っていたのにこれだ。

原因はようわからん。なんかわからんが、棺桶の中に横になっておった。

その同期も、同じ職場にいた間に父君を亡くしていた。病だったかと思う。

数年のうちに一家を何人も失う家族の心持ちは想像できない。悲愴な葬式だった。

 

いずれいずれと言ううちに。

とはいえそれは残った側の人間が勝手に計った時間であって実際に生きた人間のそれではない。驚くべきことに人の一生はそれぞれに存在する。いやまこと、驚くべきことに。それぞれに。一生がある。

それぞれのうちにある膨大な数の、なに?存在だよ存在。

死を考えるときこの存在の数をなんか数えとるんだが、

僕はまだ足りないので死にたくないという気持ちでいっぱいだ。

まだなんも足りん。

父はもう足りとるんだろうか。

死にゆく人間のことはなんもわからん。