幾望報

きねもておもちつけ

子餅③

幼児退行はもう古い。時代は乳児退行だ。

 

思い切って1月から3か月間の育児休業を取得した。

4月からの仕事が不安ではあるが、世間の仕事始めが軌道に乗った今、日中家で子供と過ごしていることは非常に心を穏やかにさせてくれる。はずだった。

そうして気づくことに、育児で一番難しいことは育児そのものではなく、育児を含めた家庭生活を本来的に他者である配偶者とバトらずこなすことができるかという点にあるのだ。

が、まあそのことはいい。言っても誰も得しないからな。

だから極力妻に触れないようにして生活を振り返る。

 

子供が家にいるが季節が季節で寒いのと家の中で風邪が蔓延していたのとあって1月前半はほとんど家の中で過ごさせてしまった。まず朝家を出る必要がなくなったので動き出すのが非常に遅くなったのも原因だ。

自分は夜9時前に長男と床にはいるとだいたい夜中3~5時の間に目覚めるようになったので、そのタイミングでミルクを作って次男坊に飲ませる。

ちょうど講談社の漫画アプリが4時にチケット更新なので、ミルクをやりながら(もちろん飲む様子は気にしながら)片手で「自分で買うほどでもないが名前は聞いたことのある漫画」を読む。『食糧人類』をよんだ。絵はうまいが人物造形が雑でたいしたことなかった。『戦車椅子』を読んだ。王ドロボウJINGみたいな世界観で好き。今は『娘の友達』を読んでいる。成人男性と未成年女性の恋愛ものは自分の中の倫理が暴れ出すので強く避けてきたのだがこれはホラーと聞いて読んでみた。ホラーだ。毒親系も最近の流行りだなあと思う。

飲ませたあとも眠ければ二度寝するが、だいたいは眼が冴えているのでそのまま残していた家事を済ませて朝活に入る。

家事のついでにコーヒーを淹れて、自室に運ぶ。パソコンをつけて寝ている間のTwitterを遡って監視し、ついぞその時間に流れることのないタイムラインをみてほっとする。SNSは毒だ。情報が際限なく流れ込んでくるし、自分もその流れに乗ろうとしてしまう。無意味とわかっていても時間を費やしてしまう…つまり実によくできたシステムだ。無意味な時間ほど楽しいものはない!だがやりたいことが何もできなくなるから、今はこのくらいの距離感がいいようだ。僕は意味と楽しみを同時に求めている。

パソコンは一旦置いておいて、図書館で借りている本を早く返さなければいけないので、コーヒーを飲みながら読む。源氏物語の英訳を日本語訳したもので、54帖が4冊にまとめられているため、1冊700ページのハードカバーだ。装丁がクリムトなので気に入っている。本当なら自分でも欲しいがちょっとかさばるので今は保留中だ。とりあえずこの1巻を読まなければいけないので必死で読んでいる。根を詰めすぎて嫌になるのを避けてだいたい一日1帖ずつ読む。

その後も時間が余っている時は積んでいる漫画を読む。出産に際して引っ越しも予定していたことから半年ほど新刊を買っていなかったのだ。チェンソーマンとヒロアカと峠鬼はなんとか追いついた。次は金カム最終3巻かな…

 

 

さて長男の赤ちゃん返りが酷い。

よく大人の行動を指して幼児退行などと言ったりするがあんなものはマジでしょうもないザコだ。ドブに捨ててよい。

問題は幼児が乳児に退行したときだ。

これは困る。そもそも子供の成長速度は大人と比するべくもなく凄まじいのだが、それだけに大人の期待は高まる一方だ。少し前に初めてできるようになったことは、いつのまにか当然できることになってしまっている。最初に断っておくがこれは絶対に大人の認識と対応力の問題だ。子供が悪いわけがない。全部大人が悪い。大人はクソ。腹を切れ。

赤ちゃん返り、という現象自体は一般的なもので、どの子供にも起こることらしい。ただその表出のされ方は様々で、単にわがままを繰り返したり感情を爆発させたりということもあるが、下の子がいるときなどは親の注意を自分に向けるため下の子を攻撃したり危険にさらしたりする場合もある。うちの場合は、幸いにしてこのパターンは観測されていない。が、それも今のうちはというだけの話で、今後も注意するに越したことはない。

赤ちゃん返りが起動している間はどうするべきか?

別に育児書を読んだわけではないのだが、自分はとにかく叱ったりせずに子供の要望を受け入れ、彼が振る舞いたいようにさせてやればよいという話を聞いたので、なんとかそれを思い出しながら対応しようとしている。が、そんなにうまくいくわけがない。大人も人間だ。

先述のように大人は子どもに期待してしまう。いやいや、君それできるやんなんでなんで?私の心はでっかいクエスチョンマークだ。

できるよできるよ。やってみようよ。一緒にやろうよ。色んな声掛けをしてみるが彼の心は頑なである。結局こちらがやる羽目になる。

よく育児指南として「否定語を使わず、肯定的な声掛けをする」というのがある。「○○しないで!」ではなく「××しようね」と言い換えるのだが……いや、もちろんやっている。やってはいるが、そんなことでうまくことが運べば苦労はないのだ。むしろ子供の方が否定語を使いこなしていて「いや!」「だめ!」「しないの!」「できない!」「わかんない!」を繰り返す。なんで?

おいクソがァ…話が違うじゃねえかてめえ育児評論家のみなさんがよ。俺の子供を預けるぞオラ。嘘。預けない。可愛いから私が見ます。クソが。

 

 

しかるに結局のところ大人が子供についていけないだけなのだ。

子供が大人についていけるわけがない。成長もすれば退行もする。生まれてまだ数年も経っとらんのだ。このことを常に思い返さねばならない。

ただ焦りもまた常にある。子の発達段階は正常か、それに適した対応ができているのか。目の前で目まぐるしく変わる対象を捉えながら日々の暮らしも維持しないといけない。結局後者が優先してしまって子供が蔑ろにされる。子が抱っこしてというときに抱いてあげられない親の何が親か?貴様腹を切れ。無念と言っとる場合があるか。

大人も人間だと書いたが、大人が人間でいようとする間、子供は何でいればよいのか。

子どもは子どもだ。それ以上の仮面はまだいらん。笑ったり泣き叫んだりすればよい。

何もかもを捨てて子を抱く己が人間でないというのなら人間をやめろという話である。

 

ここで筋肉少女帯の曲を思い出す。

少年の頃!お前はテレビを見なかったのか!?

彼らはどうした答えろ!

ならばお前もそれをやれ

 

(子が起きたので終わる)