懐古餅
どうも人間の脳みそちゃんはわりとふんわり生きているらしく、勝手に記憶を改竄したり、そもそも何もなかった部分に新しく過去を作ったりしてしまうものなのだという。なかなかのドジっ娘である。
かくいう私も、幼稚園で工作をしていた時に壁際のロッカーの上に置いてあったテープカッターからセロハンテープを切ろうとして、テープが切れずにそのまま本体ごと自分のほうへ落としてしまいケガをしたことがあったのだが、実はこれは私ではなく私の兄の記憶だったということがある。
何が起こったのかと言うと、どうも幼い頃に兄の体験(恐らくこういうことがあったから危ないぞ、という話)を詳細に聞くあまり、自分の記憶と合体してあたかも自分に起こった出来事かのように脳が整理してしまっていたらしい。事実、落ちてきたテープカッターでできたという大きな傷を手首に持っているのは私ではなく兄なのだ。この事実を私は10代も終わろうという頃に知った。長い長い勘違いだった。と言ってしまえればことは簡単なのだが、それでも私の頭の中には、手を伸ばしてやっと届く高さのテープカッターの底面がずりずりと手前へ動いてくる感触が今でもスローモーションでまざまざと刻まれているのである。
だがこれは起こったことではない。私に起こったことではない。
にもかかわらずこんなにも、私にとっては事実なのだ。
今ではそういうものだとして整理ができてはいるし、モノホンの事実関係を知る前よりも明らかに当時(起ってはいないが)の感覚は薄れてはいるのだが、それでもぬぐいきれるものではないので、もうこうなったら、そういうことが起こり得た並行世界と交信してしまったのだということにしておく。そのほうがオタク的にはかっこいいからな。ジョン・タイター的なあれかもしれんだろ。(ここがジョン・タイターを知らない世界線でないことを祈る)
さて、こうして過去を作り替えるというのは何も私に限った話ではない。きっと大なり小なりみんながやってしまっていることだろうし、それは無意識的だったり意識的だったりもするのかもしれない。
年がら年中同じ武勇伝を延々と語るいわゆる老害の類を考える。きっとその瞬間がその生涯の中で最も輝かしい時間だったに違いはないが、それにしたってほとんどの人間の生涯は、それほどドラマチックにうまくまとまったものではない。だから改竄する。より魅力的に。より劇的に。自らの生涯にあてた一点のスポットライトにだんだんとミラーボールが近づいてくるのだ。舞台はもはやディスコの様相である。そうしてあまりに飾り立てられた舞台を前に、残念ながら人間は幕の引き方を知らない。なぜならそれ以上の一点がもう生まれないからだ。もう光を当てるのに精いっぱいで、みずから輝きを生むことをやめてしまったからだ。
しかし輝きを生むとは言うが、これはあくまで結果の話だ。心血を注ぎ精を尽くし打ち込んだ何かがまずあり、その事実に対して光が生まれるのだろうと思う。その意味で、懐古厨というのはさみしい言葉だ。確かに、一心に打ち込むに値するものが見つからないという言い訳も成り立つだろう。昔の物のほうが良いものだったのだと。あれ以上の物はないのだと。しかしこれは、新しい事物に対して全霊をかけるほどの体力がないことの裏返しでもあろうと思う。
その過去の輝きは身の回りから遠くまでいろんなものに手を出してその中でつかんだものではなかったのか。ではその後己は何かに手は伸ばしたのか。大事に大事に身の内の思い出を撫でていただけではないのか。
などと、そうやって詰めていくとダメージを食らうのは私自身ではあるのだが。
別に過去は悪くないし懐古も悪くない。ただそうやって原型を失いつつある舞台を何度も演じさせられているのだとしたら、脳みそちゃんが不憫でならない。
かつて何もなかったあなたがその偉大な過去を得たのだとしたら、それを得たあなたは、より遠大な素晴らしいものに出会えるのではないかと、私はそう思うのだけれど。どうだろうか。甘いだろうか。
まあたとえそうだとしても、脳みそちゃんは甘いものが好きだというしな。