幾望報

きねもておもちつけ

教育餅

教育格差について考える機会があった。根深い問題である。

そもそも教育とは、というところの話をするとこれまた厄介なので詳細は差し控える。

極めてざっくり言えば、高校までの初等・中等教育は「社会生活を営む上で必要な事柄について学ぶ」ことがその意義である。だったらあれもこれもとカリキュラムを付け足したくはなるがそれはひとまず置く。

そしてその上の大学やらというのが高等教育機関になるわけだが、ここはというと先ほどの表現を裏返すに「社会生活を営む上で必要ではない事柄について学ぶ」場所だということができる。

誤解を恐れずもっといいつづめれば、高校までを必要な「常識」、それ以上を必要のない「教養」と言い換えることができるだろう。

 

で、困ったことに世の中にはこの表現をあげつらって「それみたことか必要ないではないか」と指さしてくる人もいる。困ったことに。いるのだ。そういう人が。

困った私はデーモン閣下よろしく「うるせえだったらお前もハンゲームの初期アバターにしてやろうか」とそのたびにひとり憤慨しているのだけれど、要するに「必要のないことの必要さ」がわからない人がいるということなのだ。そしてそれを生んでいるのがまさにこの「必要のないことの必要さ」への「アクセスできなさ」だということだ。

 

もちろんそうした教育機関に頼らずとも「教養」を身に付けられる人はいる。それどころか「教養」がなくても幸せに一生を送る人もいる。まずはそうした人たちの生き方が否定されてはいけない、と思う。その上で、の話だ。そうした人たちが認められるべきであるのと同様に、「教養を得たい」と思う人があれば、これもまた認められなければならない。少なくとも社会はそうあるべきだ。私やあなたがどう思うかではなく、社会としてその受け入れが可能であるかどうかという話なのだ。性多様性と似た話だ。

教育格差は、(あくまで全体的な傾向の話なので例外はいくらでもあると思って聞いてくれるといいが)子供が受けられる教育の機会と質が、家庭の収入で左右されてしまうことで生まれる。

ひとえに教育といっても様々だ。たしかに学校教育が担うところは大きいが、これはあくまでその一つに過ぎない。学校教育のほかには、美術館や動物園などの施設や地域による社会教育があり、また各家庭における家庭教育がある。傾向的には高収入の家庭ほど生活に余力があり、子供は健康に生活し、学校で学びに集中でき、家で会話をし、あるいは習い事に通い、休日に外界と触れることができる。もちろん例外もある。低収入の家庭はその逆を考えればよい。もちろんこれも例外はある。

問題は、こうして生まれた格差により子供世代がまたさらに格差を広げていくことだ。現実は残酷である。鳶が鷹を生むこともあるが、大抵蛙の子は蛙というわけだ。親がよっぽど身を削って教育機会を充実させない限りは、あるいは子がよっぽど熱心に学習意欲に燃えない限りは、なかなかこのスパイラルから抜け出すことは難しい。そして先ほどの言葉を使えば、「必要のないことの必要さ」がわからない人は、そのうち高等教育に飽き足らず初等・中等教育まで否定しだす。やれ三角比がいらないだの、ありをりはべりが何の役に立つだのと。この多くは、それ以上のことにアクセスできなかったがための、想像のできなさに起因しているだろうと私は考える。自分の歴史を守るのはよいが、それによって他者の足を引っ張ることがあってはならないと思う。特に、自分より若く未来ある人間の足をだ。

(まったく、無駄だ無駄だというのなら、およそこの世のすべては無駄事であるからとっとと御髪を下ろしてくれてよいのだが。)

 

とかく必要なのは、こうして保護者の収入やその一存で子供の未来が決定されてしまう状況をなくすことであり、社会としてすべての教育の機会を保障することだ。もちろんそれには家庭教育も含まれる。いくら学校や施設でその機会を保障したところで、家庭で弟妹の世話に追われて生活がままならないでは本末転倒だからだ。全くの理想論であることを承知で言えば、我々が社会として真っ先に教育すべきは保護者にあたる大人たちのほうであり、またその生活を保障している雇用者たちであるといえるだろう。私たちが考える以上に子供は貪欲である。もちろんすべてとはいかないが、彼らがまっとうに機会を与えられれば、それなりに興味を示すものも今より多くは見つかるはずだ。

別にそれで形にならなくったっていいのだ。仕事につなげようなんてもってのほかだ。

ただ学ぶだけでいいし、なんなら学ばなくたっていい。

選べるという状態に価値があり、選んだという結果に価値がある。

 

 

こうやってたまに真面目な話をすると無性に酒が飲みたくなるのだ。