幾望報

きねもておもちつけ

音餅

音楽というのは偉大だなと時々思うことがあって今がまさにそれである。

とはいえ何も、音楽って世界共通素晴らしい歌詞に感動共感わかるそれなーとか、そういうことが言いたいわけではない。

自分の気分に合った曲を見つけてしまうと、何はなくとも頭の中でその曲を流すだけで、自分で自分の心の内奥を解き明かして語り尽くしたかのような錯覚を簡単に作り出してしまう点において、いやあ音楽ってすげえなと思う次第だ。

怖いな、と言ってもいい。

何か言った気になってしまうのだ。何もしていないのに。自分で表現することを諦めて、投げ出して、ゆったり構えてあぐらをかいて、そう、自分が言いたいことはまさに今これなのよーこれ、こういうことだったのよー、などとしたり顔でへらへらしてしまう。よく言えば懐が深いのだが、酒など飲みながら考えているとどうにも怖く感じてくる。

懐ならよいがこれはもしや沼ではないかと。

だからあんまり体を預けすぎないほうがいいのかもしれない。

 

なぜこんなことを書き始めたかと言うとまさに自分がそういう状態になりつつあったからだ。なーんか無性にささくれ立ってイライラしてる。盛りの付いた雌猫みたいにー。なんて向井秀徳が歌っていたのがえんえんと頭の中でループしている。そうして酒を飲んでいる。もうその曲にどっぷりつかってしまって自分ではなんにも考えられない。まあそれもいいのかもしれない。確かに楽しくはある。だって大好きな曲なのだ。自分の体に、心にあっているのだ。

だがそういう時ばかりでは、脳から流れてきた音に悠々と乗っかって何も思わない時ばかりではない、という話だ。今日の私はなんだかブルっと来たのでいったん脳の再生ボタンを止めておいて文を書くことにした。なーんで俺はこんなところでこんなことしてるー。ただ脳ポッドは不良品なので止めても時々流れてくるが。いつまでたってもやめられないのねー。

 

0時をまたいでわざわざ聴く音はだいたいいつもローテンポで、じっくり歌詞を聴きながら口ずさんだりしていると泣けてきてしまうことがある。まあ半分程度酒のせいではあるにしても。最近は30歳を目前にしてこれまでの人生とこれからの人生を頭の中で並べてみてしまうことが多くなって、なんだか情けのない気分になることしばしばだ。

 

少年老い易く学成り難しとはよく言ったものだ。

つまらぬ人間には成り果てたくないな、とだけ強く思う。しかし思うだけでここまで来たようなものだ。困った。私の頭にはだいたいいつも音楽が流れる。抗って何かしなければという焦りばかりがつのり、しかしその堆積が関節をぎごちなくさせているようにも思う。

 

もっと力強い生活をこの手に。そういう話である。