幾望報

きねもておもちつけ

コスパ餅

行政手続きに失敗した。

奇跡的に平日に出来た休みを利用して朝から車で1時間半もかけて県庁所在地まで向かって用意してきた書類に合わせて現地での書類作成にさらに1時間を要し提出してから1時間後に言い渡されたのが「これ書類違いますね」という言葉だった。正しい書類の取得には2週間前後かかるとのことだった。

かくも行政は冷酷である。

ただまあ、故に信頼に足る。

しかしそれでこの落胆と胸のむかつきとを納められるほどできた人間ではないので何か矛先を見つける必要がある。私の貴重な休日は雲と消えた。どうしたって業者に頼まず自分でできると思って失敗した自分が悪いのだが、自分が悪いことは十分にわかっておるものの今すぐにできる対処がないがために、私はこのやり場のない感情に、やり場を見つけてあげたいのだ……。

 

早い話が八つ当たりだ。

別に間違うことはいいのだ。ただその間違いに伴う損失がでかすぎるのだ。なんなんだ?たまの休みが台無しだ。せめて自宅でできる手続きであれば、さほどの労力も伴わないからして酷い落胆や余計ないらだちを覚えることもない。それがどうだこの仕打ちは。事務仕事が苦手な人間だっているのだ。用紙だって何枚書き損じたかわかるものではない。どうしてもっと簡単にしてくれないのか。隣の県は電子申請にも対応していたではないか。脳をプリンタに有線接続してやろうかというのだ。

と、ここまでくれば、なるほど、簡単ならざればこそ現状それを代行するのを生業にしている人もいるわけで、しからばその労力に適した支払いをしてしまえば苦手かつアクセスの容易でない私自身は「簡単に」ことを済ませてしまえるわけだ。一体私は何円をケチって今日にいたるまでの何時間と自分の体力をどぶに捨てたのか?このあたりの計算が楽にできる人はあまり間違った選択もしなくなるのだろうか。結局のところ私も、10円安い卵を買うために1キロ遠くのスーパーへ行く主婦と変わらないのかもしれない。

どうせならみんなが大なり小なりそういう感じでいてくれればいい。

私はただ、たまの休日に、生産も充実も疲れもしない存在でいたかっただけなのだ。

生産せずにただ疲れるなど苦痛の極みだ。生産するつもりだったのに生産できなかった上の疲れなどなおのことだ。はーコスパコスパ

 

そんなことを思って帰りしなに上司に教えてもらった中華料理屋に入るとまさに食べ終わったところの私服姿の上司がそこにいて、軽い挨拶の後に私が注文したのを確認すると、自分ものとともに颯爽と私の伝票をレジへ運んでいってしまった。ありがてえ。ありがてえ。

 

今回の件から得られる教訓があるとすれば、それは人の金で食う本格中華はうまいということだ。浮いたお金で、自宅用に持ち帰りの担々麺を注文することもできる。いや、違うのだが。

失ったものより、得たものを見よと、そういう話だ。

職人餅

先日、金属工芸を生業としている実兄の家へ遊びに行った。

近頃はキセルの制作に取り組んでいるらしいが、資料が少なくて難儀しているのだとか。作業場を見せてもらうと、いくつか実物を見ながら展開図を書いてそれに合わせて板を切り、切ったものを叩いて形を作っている。ちょうど自分も安物だがいくつかキセルを持っていたので、後日写真を見せて気に入ったものを封筒に詰めて送った。今日届いたそうだ。参考になるとよいが。

そのうちの一つに、金具が魚々子(ななこ)地になっているものがあった。魚々子とは魚の卵、魚卵のことだ。先端が円形に鋭く作られた鏨(たがね)という工具を金属の表面に打ち、少しずらして打ち、という作業を隙間なく行って作る、模様のことを言う。卵の大きさはまちまちだが、概して小さい。実際の魚卵の大きさほどで、直径1ミリに満たないような小さな丸模様を、少しも重なることなく均等な間隔で打ち続けていくのだという。おそるべき技術だ。

以前博物館を訪れた際見た、刀の鍔(つば)にもこの装飾が使われていたのをよく覚えている。非常に細かい造形で、透かしもあり、かつところどころに象嵌も施されていた。曰く、明治以降と江戸では職人の技量が段違いなのだそうだ。特に刀などの戦に使われた道具は、実戦での使用が少なくなるにつれてより美しく、美術品としての価値を高める方向にシフトしていった。それが極まった江戸時代は、そういう意味では平和だったのかもしれない。職人たちは今から見れば狂気の沙汰ほどの技量の極致を実践し、それを残している。もちろんすべてではないにしろ、それで生きていけたのだろうから驚きだ。

装飾に使われる技法は何も武具だけにとどまらず、様々な分野を横断する技術だ。螺鈿なんかも見れば見るほど狂気を疑う。まったく職人という人間は度し難い。

 

 

ついでに刀の話をしておくが、日光の二荒山神社というところに馬鹿みたいにでかい刀が祀られている。通常、いわゆるお侍が腰に差している打ち刀は長くて刃渡り90㎝、せいぜい70㎝程度のものが多い。さらに以前の平安鎌倉から戦国時代あたりでよく見る腰からベルトでぶら下げている太刀と呼ばれるものは、もう少し長いこともあるのだが。

ではここに納められているご神刀はどうかというと、なんと刃渡り216㎝。驚異である。

それだけでなく身幅(広さ)も尋常ではなく、通常の刀であれば3㎝を超えていれば幅広と思われるところ、この刀は5.6㎝もあるのだ。

さらに太さは2㎝。馬鹿か?と言いたくなる。不敬なのでこれ以上言わないように。

当然それだけでかい金属の塊であるから、重い。

重すぎるので並大抵の刀の造形では持つこともままならない。よって、刃渡りに加えて持つための柄まで長くなる。なんと柄だけで107㎝。普通の刀より長いのだ。全長の1/3が柄ということになる。

拵えを合わせれば総長331㎝、総重量24㎏の鉄塊だ。ベルセルクは日本に実在したのだ。

その名も「祢々切丸」。南北朝時代に鍛造されたらしく、かつて近所に巣食っていた「祢々(ねね)」という鬼を切り伏せたという伝説が残っている。実は同じぐらい長い刀があと二振りもある。これも馬鹿みたいにでかい。すまない、もう言うことはない。

 

とかく職人は度し難い、と、そういう話だ。

ゴールデン餅

GWが終わってしまう。これはまずい。

では聞くがゴールデンウィーク、何をしていた?私はだいたい家にいた。

でもちょっと旅行に行った。兄が富山にいるので挨拶がてらついでに金沢も立ち寄ってきた。本当は少し離れたところでやっていた九谷焼のイベントに行きたかったのだが、どうにも初心者がふらりと立ち入る隙は無いようなハードなフェスだったらしく、ツイッターで検索するとヒットは少なかったがかなりの混雑具合が見て取れた。ツイッターにいないような人たちが購買層なのだと思う。そしてそういう人たちの圧がすごいことを私は知っている。ジャスコとかでな。たぶんライジングサンみたいな熱気だ、行ったことないけど。だからこれは諦めた。金沢で商店街をぷらぷらしながら雑貨屋を冷やかし、適当に入って食べたあんみつが甘すぎて少し残した。こんなことならゴーゴーカレーでも食べておくんだった。無念と思いつつ加賀棒茶を買って帰った。

だいたいゴールデンだというのならその次はプラチナが来るべきじゃないか?プラチナウィークだ。プラチナウィークはGWよりちょっとお得な12連休、全商品5%オフの毎日プラチナうれしいお客様感謝デーだ。ぜったい流行る。だめか?だめか。

そんなことで憤慨しながら旅行後に通販サイトをやるかたなく覗いていると、前月の購入額が規定に満たなかったせいでランクが下がっていたことが分かった。

驚いた。履歴が充実していないとその次はランクが下がるのだ。当然ポイントの利率もわるい。年頃、ゴールデンの後に絶望が待つのはこのせいだろう。

するとなると残る日数でプラチナウィークを待つのは少し酷というものだ。せめてランク継続ぐらいは確保したい。

 

つまるところ俺たちのゴールデンウィークはこれからだ!と。そういう話なのだ。

 

とはいえ仕事は常から行きたくないものなので、これはこれでどうしようもないのである。

近頃は鉄の日々を行く覚悟について考えることが多くなった。

マルチ餅

マルチはマルチでも危ないマルチではない、ディスプレイの話だ。

先日、パソコンに明るい同僚が手に余ったというディスプレイとアームを譲ってくれた。しばらく部屋に転がしておいたが、このGWは10連休を確保しながらほとんど家にいるのでこれが邪魔で仕方がない。部屋を片付けるついでに、ちゃんと設置してみることにした。

マルチというからには結論としてはパソコンに2台接続したのだが、最初は迷った。というのも、自室で据え置きゲーム機でプレイする場合、いちいちPCのHDMIを挿し替えなければいけなかったからだ。ディスプレイが2台あるならそれぞれPC用ゲーム用と分けるべきか、としばらく悩んだが、その場合二つとも横向きに設置する必要があり、しかしもらったアームがことのほか短いので上に設置することもできず、無理やり並べると自分が椅子に座った際に正面には二つのディスプレイの隙間が来るような妙なレイアウトとなってしまった。これでは本末転倒だ。毎度毎度体を傾けながらディスプレイを凝視するぐらいなら都度都度HDMIを挿し替えたほうがよっぽどましだ。試みに2つ目の画面を縦に置いてみたらうまい具合におさまった。これでいこう。

その後実際に設置する際にもアームが弱くて画面が傾くやらやっぱり低くて視角が悪いやらでうまくいかなかったので、夜中に角材を切り出してクランプに挟んでかさ上げし、押し入れに眠っていたガラクタの中からちょうどいい高さの漆塗りの箱枕を探し出して支えにするなど、何かと予定外ではあったが試行錯誤の末ひとまず環境ができあがった。

机の限界上縦置きするしかなかったディスプレイだが、これはこれでなかなかいいものだ。まず文書が読みやすい。横長画面ではスクロールを何度もしなければならないが、縦長だとWebページやWord文書の閲覧が非常にしやすい。Excelはまだ開いていないが多分これも同時並行で作業したい時や資料として閲覧したいときなどにいいだろう。ただ私も忙しい人間ではないのでそうそう毎回そんな窓を開いているわけではない。では何に使うのか?

私はPCに触れ始めて以来かれこれ20年これをPCの欠陥だと思っていたのだが、デスクトップにお気に入りの壁紙を設定しても作業している間はみじんも目に触れることがないというのは、果たしていかがなものなのだろう?むしろお気に入りの画像であれば作業中ふと目を移して心を休めたいものではないか。仕事机に子供の写真を置くかのように。推しキャラのフィギュアを並べるかのように。

そんなわけでさほど作業も多くない私にもマルチディスプレイ環境を整えたことに十分すぎるほどの成果があった。全画面で作業しながらも壁紙を常に見られるということだ。これはいい。非常にいい。縦長画像はあまり収集していなかったのでこれから探す予定だが、ひとまず当てはめたのは1990年代後半ホビージャパンから発行されていた雑誌「GAMEぎゃざ」に登場したガール・ザ・ギャザリング(ゼノシリーズでおなじみの田中久仁彦・作)、いつかどこかで拾ったデータだ。本当は水族館の水槽を眺めている画像なので手前に魚が泳いでいるはずなのだが、それがいないので画面の向こうからこちらをのぞき込むような格好となっており、見ての通り非常に”よい”画となっている。

これを常に傍らに置きながらネットサーフィンをできるというわけだ。

おわかりいただけただろうか。

 

というわけで結論としてはマルチディスプレイはよいということだ。

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”よい”画像

 

令和餅

令和になったのでブログを始める。

特に意味はない。なにかきっかけが欲しかっただけだ。

 

夜更かししてしまって眠さが極まっておるので手短にするが令和について述べる。

元号が令和に決まってから、少し万葉集を調べている。といっても本当に少しだ。手近な図書館にあった万葉集をいくつか並べてみてそれぞれ解説を読む程度だ。

万葉集は「万葉仮名」という言葉があるように、いろはの一音一音を漢字で表記することで歌が記録されているのだが、どうも今回の「令和」の出典となったらしい部分はニュースによって少しずつ文言が違うのが気になっていた。該当箇所を見つけてみるに、やはり原文は歌と同じく漢字なのだが、大きく違うのはその文の形式だ。

問題となった序文は歌と違い、漢文で記されていた。漢文を訓読、つまり日本語として読む上では、大まかな意味は共通していても、訳者によって詳細の読み方は変わってくる。ニュースによってブレがあるのはこのせいだった。同じ万葉集を典拠としていても、それを引用している本の年代や出版社で訳者は当然異なる。いくつか並べると分かったが、みんな本当にバラバラな読み方をしているので、ぜひ組み合わせるなどして自分だけの最強の「令和典拠」の訓読をみつけてほしい。

 

ところでいくらか話題になっているようだがこの「令月~風和」という文言はどうも万葉集が最古というわけではないようで、聞けばもっと何百年も前の中国の書物にいくつも出てきているのだという。それもこれまで元号を採用されてきた書物にまで含まれているとか。

それに加えて、どうも序文の解説を読んでいると、この序文自体が作者である大伴旅人が中国の有名な書物の一説を参考に(いわばパロって)作られたものなのだという話まで出てきた。パロディやオマージュというのは前提知識がないと理解できないわけだが、古い文化では和歌の本歌取りに見えるように「引用元のことはまあみなさん当然知ってますよね」という体で過去の名作が引用され、鑑賞する際にも当然その引用元の歌の意味や物語の背景などを含んで読み解いていく。であれば時の超エリート知識人たる大伴旅人が古の漢文の形式になぞらえて序文をしたためているのに引用元が関係ないはずがない、といって解説しているとある教授の話をpdfで読んで感銘をうけた。私は。単純な人間だからな。だからこの話はほとんど受け売りだ。

しかしまあ思考停止はしたくないと思って今度もまたその原典らしきものを当たって再び並べて比べてみようなどと思っているのだが、今もってそこまではたどり着いていない。王義之の蘭亭序なんてどこにあるんだよ。検索しても書道の本しか出てこないんだよ。どうやら書道界ではウルトラ有名な人らしい、王義之。知ってる?私はしらない。勉強してこなかったからな。

 

というわけでオチもなにもないわけだが元号も変わったことだしそこは恩赦をいただこう。

まだ私の調べものも、始まったばかりなのだから。令和だけに。