幾望報

きねもておもちつけ

筋肉餅

結婚して1年以上が過ぎたわけだが体重と腹回りが増加の一途をたどっている。

もはや増長と言ってもよい。

一度冷静になって結婚前の体重と体脂肪を思い出しながら家にある体組成計に乗っかって見たら体重は3キロ以上増え体脂肪率は4%ほど上がっていた。

この体脂肪率4%とはどういう数字かと試算してみた。

当時の体重と体脂肪率がだいたい62kgの13%だったのでこの時点で体脂肪は8㎏あったことになる。

対して現在65.4kgの17.1%にまでなってしまったので11kg超というわけで。

 

 

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いやはや、これでは純粋な脂肪がまるまる3kg増えたということになる。

 

脂肪3kgだと?

 

スーパーの精肉コーナーに置いてある牛脂が一つ7g程度ということなので私はこれから自分がこの1年で身に付けた脂肪だけで428回すき焼きができるわけである。

これは毎夜すき焼きをしても1年では取り返せない量だ。

しかもすき焼きをするほど太るので永遠に私は私の脂肪に追いつけないことになる。

さらに悪いことに今のは単純計算の数値だ。同時に減っていった筋肉たちの比重を考えると、増えた脂肪は3kgよりもまだまだ多いことになる。

そうなると私は毎日2食すき焼きを食べないと自分の脂肪を消費できないわけだが。

こうなっては具はすべて豆腐にせざるを得ないだろう。

溶き卵に飽きたら豆腐をバニラ味のホエイプロテインをくぐらせる。

 

 

くぐらせるわけがないだろ。

 

 

どうしてこんなことになったかと言えば、ひとえに妻が料理に腕を振るい続けたためである、とのろけてしまいたいところだが実際原因はそれだけではない。(これもあるにはあるが)

思い返せば結婚のさらに半年前、それまで週1~2回のペースで行っていた運動が突然の体の不調で続けられなくなった。町の道場で長いこと武道をやっていたのだが、いかんせんヤってしまったのは腰だ。なんのことはない、車の荷物の上げ下ろしがきっかけで。いままで感じたことのない種類の痛さだった。これではさすがに受け身は取れないし、そのときは正座も難しかった。

一過性の物だろうと思ったのではじめ接骨院に行ってはみたが、どうも楽になるのは電気を流して温かくしてマッサージを受けたあとぐらいのものだ。何回か通ったあと、きちんと整形外科を受診した。正直なところ、整形外科にはあまりいいイメージがなかった。というのも、だいたい何かしらの痛みを訴えて受診しても、「骨に異常はないので湿布を出しておきます」といって大した処置をしてもらえたためしがなかったからだ。

まあしかし、もしもということがあるのでやはり体の不調があれば一度は医者に行くべきだろう。結論から言えば私の場合「骨に異常があるぞ」ということがわかった。なんのことはない、これまでが健康すぎたのだ。それは湿布しか出してもらえないわけだ。

医師の診察ではヘルニアの二歩手前ぐらいのもので、姿勢によって骨が神経にさわさわしてしまう状態を簡単に戻すことはできないので、痛みのないきちんとした姿勢を維持できるよう体幹の筋肉を鍛えることを指示された。

もちろんそれから、何もしなかったわけではない。体が楽な時に負担をかけないようにできる限りの筋トレをした。幸い半年ほどでだいぶと楽になり、今も小康状態が続いている。

しかし結婚、引っ越しとライフステージを経る中でいろいろ状況が変わってきた。引き続いて思い立ったときに筋トレに励むようにしていたのだが、アパートの2階住みとなったためあまり夜に音を立てることもできない。激しい有酸素運動には向かないので、必然、高負荷の無酸素運動に取り組むこととなり、まあ、早い話がすぐバテるのであまり続かなくなってしまった。

加えて、一人暮らしの時のように気ままな食事をとるわけにもいかない。妻が作ってくれたものをうまいうまいと食べる。食べ過ぎる。運動しない。食べ過ぎる。結果がこの腹である。実家の父が肥満体型なので行く末をわかったつもりではいたが、まだもう少し頑張ってほしいところである。

会社としても一つの事業所での年限がもういっぱいになってしまったので、4月になれば新しい職場に異動することがわかっている。新しい節目にこの腹を引きずったままでは少し格好がつかないところがある。ので、自分としてはなんとか脂肪を筋肉に変換していきたい。

そこで目を付けたのがこれだ。

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ちゃんとCDを買って聴いてみると2番のあとでトレーニングパートがある(?)ので、聴いているだけで一緒にトレーニングができる仕組みになっているのだ。何を言っているのかわからないと思うがこの楽曲には大サビ前にトレーニングパートが挿入されている。このオタク・ソングの音声波形に含まれる特殊な高周波によって我々は自然と足を肩幅に開いて片足の膝と逆の肘をくっつけるように腹筋を収縮するよう仕向けられているのである。何を言っているのかわからないと思うが私にも何を言っているのかはわかっていない。しかし腹筋は収縮している。そういう歌である。

アニメの各話終盤にもきちんとトレーニングパートが用意されているのでこちらもぜひ活用していきたい。

いやまったく美少女とでも一緒じゃないとオタクはまともにトレーニングもできないのである。

 

とはいえかの上人の言葉とされる『歎肉抄』にも「パンピーなおもて筋肉を遂ぐ、況やオタクをや。」とある。

山川草木悉皆筋肉。オタクは己の内奥と対話することに長けているのでインナーマッスルは早めに鍛えられそうというものだ。

 

要するにオタクはキモいという話であり、はやくリングフィットアドベンチャーが欲しいという話である。

音餅

音楽というのは偉大だなと時々思うことがあって今がまさにそれである。

とはいえ何も、音楽って世界共通素晴らしい歌詞に感動共感わかるそれなーとか、そういうことが言いたいわけではない。

自分の気分に合った曲を見つけてしまうと、何はなくとも頭の中でその曲を流すだけで、自分で自分の心の内奥を解き明かして語り尽くしたかのような錯覚を簡単に作り出してしまう点において、いやあ音楽ってすげえなと思う次第だ。

怖いな、と言ってもいい。

何か言った気になってしまうのだ。何もしていないのに。自分で表現することを諦めて、投げ出して、ゆったり構えてあぐらをかいて、そう、自分が言いたいことはまさに今これなのよーこれ、こういうことだったのよー、などとしたり顔でへらへらしてしまう。よく言えば懐が深いのだが、酒など飲みながら考えているとどうにも怖く感じてくる。

懐ならよいがこれはもしや沼ではないかと。

だからあんまり体を預けすぎないほうがいいのかもしれない。

 

なぜこんなことを書き始めたかと言うとまさに自分がそういう状態になりつつあったからだ。なーんか無性にささくれ立ってイライラしてる。盛りの付いた雌猫みたいにー。なんて向井秀徳が歌っていたのがえんえんと頭の中でループしている。そうして酒を飲んでいる。もうその曲にどっぷりつかってしまって自分ではなんにも考えられない。まあそれもいいのかもしれない。確かに楽しくはある。だって大好きな曲なのだ。自分の体に、心にあっているのだ。

だがそういう時ばかりでは、脳から流れてきた音に悠々と乗っかって何も思わない時ばかりではない、という話だ。今日の私はなんだかブルっと来たのでいったん脳の再生ボタンを止めておいて文を書くことにした。なーんで俺はこんなところでこんなことしてるー。ただ脳ポッドは不良品なので止めても時々流れてくるが。いつまでたってもやめられないのねー。

 

0時をまたいでわざわざ聴く音はだいたいいつもローテンポで、じっくり歌詞を聴きながら口ずさんだりしていると泣けてきてしまうことがある。まあ半分程度酒のせいではあるにしても。最近は30歳を目前にしてこれまでの人生とこれからの人生を頭の中で並べてみてしまうことが多くなって、なんだか情けのない気分になることしばしばだ。

 

少年老い易く学成り難しとはよく言ったものだ。

つまらぬ人間には成り果てたくないな、とだけ強く思う。しかし思うだけでここまで来たようなものだ。困った。私の頭にはだいたいいつも音楽が流れる。抗って何かしなければという焦りばかりがつのり、しかしその堆積が関節をぎごちなくさせているようにも思う。

 

もっと力強い生活をこの手に。そういう話である。

邪悪餅

この世には吐き気を催す邪悪が確かに存在する。

ではそれに出くわしたとき我々には何ができるのか?

考えるだけ無駄である。そんなものはない。何もできないのである。

我々はジョジョのキャラではない。

だから悲しいのだ。

 

途方もない理不尽がその身に降りかかった時、人は驚くほど無力である。末法ここに極まれりだ。いや、その始まりに過ぎないのかもしれない。末法の訪れに人は何を求めるだろう。いかに生きるか、いかに死ぬか、そういう話になるのだとしたら、思想や哲学はやがて宗教になるだろうか。この多様化の時代に新しく大きな共通の物語が席巻しようとは思われない。人々は個々に信じたいものを信じ、善悪を語り、片や持ち上げたてまつり片や蹴落とし地になじるだろう。

溝は深まる。

あーもうそんなのさ。やったじゃん。これまで。アニメで見たやつじゃん。ゲームでクリアしたやつじゃん。そう思った。スーファミの時代からのやつじゃん。

でもオタクはオタクなので結局嘆くだけ嘆いて何もしないし何もできないのである。

そんなことはわかっている。できることと言えば暗い顔でニュースを追って少しずつ増えていく死者の顔と人生と最後の感情をぼんやり想像するぐらいのもので結局のところ何もできない。

我々はジョジョのキャラなどでは決してない。

生きていくためには見たり見なかったりしていくしかない。

 

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それでも誰かの幸せを守らないとという身勝手な思いは死に触れるたび想起されるのであった。

もっとつよくなりたい。そういう話である。

歴史餅

今日こそは手続きに成功した。やってやったぞ俺は。

以前失敗したとき(コスパ餅)から、一月ぶりに奇跡的な平日休みが取得できたのでリベンジを行った。前回誤って準備できていなかった書類もばっちりだ。勢い勇んで早起きして行った。以前よりも空いていたのでわりとスムーズに事は運んだ。いやはや奇跡と思っていた平日休みもとろうと思えばとれるもので、月一で起こる奇跡も悪くはない。今後もどんどん起こしていこうと思う。

 

そこで帰る道すがら、間違えて国道ではなく人気のない河口へ来てしまった。適当なところでUターンしたが、その一瞬に見えた舟の影がどうも脳裏に残っている。何年もそこに係留、ないし残置されているような姿だった。

そうして何とはなしに思い出したのが『高瀬舟青空文庫)』という話だ。久しぶりに読んだ。が、今回の話は別にそのことではない。

こうしたときに私の頭の中に思い起こされるのは高瀬舟自体ではなくて、その後次々と連想ゲームのように浮かんでいく脈絡のない要素だ。河口で舟を見た。舟と言えば高瀬舟。これは森鷗外の筆によるものだ。進学校の教科書によく載るせいか『舞姫』で有名な鷗外だが、それにはまったく触れず森鷗外の人生をテーマにした歌がある。これはエレカシが歌っている。「凄みのある口語文は最高さ」などと宮本が歌うから笑ってしまう。凄みのあるのはあんただろ。彼はそんな鷗外の人生を指して「男の生涯にとって死に様こそが生き様だ」と最後に歌い上げるんだけれども、一体我々は死ぬまでに何を成し何を残せるんだろうかと考えながら自分は車を運転して帰ってきた。その歌のタイトルが『歴史』。ただ実際車内で聴いていたのはこれ。

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まあある意味歴史ですよ。「恋とは結末が全てなの」ってもう実質さっきの歌詞と一緒じゃないですか。もうエレカシエレカシ

森鷗外をタピオカミルクティーに漬け込むとたぶんこれになるんよ。

でも森鷗外エレカシのメンバーじゃなかった。なんでだろうね。

 

 

歴史ついでに話をしておくと、歴史のファンタジー解釈漫画が大好きなので簡単に紹介する。

みんな大好きだから『ゴールデンカムイ』『ドリフターズ』は特に説明が必要ないね。

前者はアイヌ変態バイオレンスグルメ漫画

後者は敗軍転生バイオレンス島津漫画。以上だ。作者の性癖がつまったオパイーヌがかわいいぞ。

次に、昔から大塚英治が好きなんだけど特に面白いのが『北神伝綺』『木島日記』『八雲百怪』といった民俗学シリーズ。現代が舞台の作品もいくつか読んでたけどやっぱり大塚英治は歴史と絡めたほうが面白い。それぞれ柳田國男折口信夫小泉八雲が登場する。ロンギヌスの槍は実は草薙剣ヒトラーが狙っている~みたいな話はぶっ飛んでてハイになれるけど読んでて眠くなってくるぞ。たぶんブックオフで100円で買える。

また、これは後輩に教えてもらったものだけれど『陰陽頭 賀茂保憲』という伊藤勢の漫画。そろそろこの時代には胃もたれしがちなあふれ出る昭和ギャグセンスはまあ置いておくとして、安倍晴明の師匠である最強陰陽師の主人公が平安京を燃える牛車で駆け抜けたり道真の怨霊パワーをつかって巨大モンスターを倒したりする大変愉快な内容。虫めづる姫君など、現存する古典文学や歴史書・神話をベースにしながらファンタジーで丸め込もうという勢いがすごくいい。1巻しかないのが残念だ。これも100円で買える。

で、それらもそれらだけども最近特におすすめしたいのはUMA大好き久正人の『カムヤライド』という日本神話を舞台にした埴輪変身ヒーロー漫画。各地でよみがえる国津神を、化け物に改造された地方豪族もろともばったばったと蹴り倒していく特撮ものだ。設定の何もかもがイカす。だって埴輪で変身するんだよ?馬鹿じゃないのか、かっこいいなクソ。あとキャラクターのセリフで漢語を「奇跡(くしあと)」「爆発(はぜたち)」などと無理やり和語で読ませるところも最高にクールだ。暑苦しいわ。いいやクールだね。極めつけは顔から出る前方後円墳ビームだ。かっこいいだろ。いかれてるとしか思えねえ。絶対前方後円墳ビーム撃ちたい。

 

とまあつまるところ歴史はロマンだという話だ。

私は特に遮光器土偶なんかが家に一基欲しいと思ってるけどもね。あれはいいものですよ。

ミント餅


わりかしわかりやすいオタクなのでアニメの化物語が好きで。

特に「斧乃木余接」ちゃんが好きで好きで。

彼女のキャラソンかつオープニングテーマであるところの『オレンジミント』の、

その中でもAメロにパーカッションの一つとして入ってくる余接ちゃんの、

サンプリングされた「ッアー」という吐息めいた音声がまあ好きなのである。

なぜならオタクなので。

 

去年あたりからチョコでコーティングされた柿の種を好んで食べるようになったのだが、まあ甘いのと辛いのとでいい具合に美味しいのだ。各社の商品を食べ比べたがどうもブルボンがチョコと柿の種のおいしさのバランスがよくとれている。量的にはややコスパが悪いが、味には変えられない。ノーマルなミルクチョコとホワイトチョコがラインナップされているが、ここに春にはイチゴチョコ味が出ていた。

だいたい季節限定品よりオーソドックスな味がおいしいと相場は決まっているのだけれど手を出してしまうのが人間の性たるところで、御多分にもれずイチゴ味を買ってしまった私はやっぱり普通のチョコがおいしいや、などと思って居ったらもう夏である。

 

春が桜やイチゴ味なら夏は何か?

察しのいいひとはお気づきだろうがそう、夏でチョコと言えばもうこれしかないのである。

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ミント味

まあ冷静に考えればちょっとわかりそうなものなのだが、いかんせん季節の変わり目において人間は冷静ではない。私はこれを買いこれを食したわけだが、まあしかるべき味がしたとのみ答えておこう。

あんまりにあんまりなので小さな袋がなかなか片付かずちまちま食べていたのだが、菓子としてではなく酒のつまみとしてならいけるのではないかと考えウイスキーに合わせてみる。なかなかどうして悪くない。ちまちまとしか減らなかったものがたちまちに片付いていく。酒も進む。

 

さて、ここで何の話だったか翻って思い出してほしい。

 

 

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斧乃木余接

 

 

 

 

 

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斧乃木余接

 

 

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まあ本当に好きなのは八九寺真宵ちゃんなんですけどね。僕はキメ顔でそういった。

 

要するにオタクはキモいという話である。

教育餅

教育格差について考える機会があった。根深い問題である。

そもそも教育とは、というところの話をするとこれまた厄介なので詳細は差し控える。

極めてざっくり言えば、高校までの初等・中等教育は「社会生活を営む上で必要な事柄について学ぶ」ことがその意義である。だったらあれもこれもとカリキュラムを付け足したくはなるがそれはひとまず置く。

そしてその上の大学やらというのが高等教育機関になるわけだが、ここはというと先ほどの表現を裏返すに「社会生活を営む上で必要ではない事柄について学ぶ」場所だということができる。

誤解を恐れずもっといいつづめれば、高校までを必要な「常識」、それ以上を必要のない「教養」と言い換えることができるだろう。

 

で、困ったことに世の中にはこの表現をあげつらって「それみたことか必要ないではないか」と指さしてくる人もいる。困ったことに。いるのだ。そういう人が。

困った私はデーモン閣下よろしく「うるせえだったらお前もハンゲームの初期アバターにしてやろうか」とそのたびにひとり憤慨しているのだけれど、要するに「必要のないことの必要さ」がわからない人がいるということなのだ。そしてそれを生んでいるのがまさにこの「必要のないことの必要さ」への「アクセスできなさ」だということだ。

 

もちろんそうした教育機関に頼らずとも「教養」を身に付けられる人はいる。それどころか「教養」がなくても幸せに一生を送る人もいる。まずはそうした人たちの生き方が否定されてはいけない、と思う。その上で、の話だ。そうした人たちが認められるべきであるのと同様に、「教養を得たい」と思う人があれば、これもまた認められなければならない。少なくとも社会はそうあるべきだ。私やあなたがどう思うかではなく、社会としてその受け入れが可能であるかどうかという話なのだ。性多様性と似た話だ。

教育格差は、(あくまで全体的な傾向の話なので例外はいくらでもあると思って聞いてくれるといいが)子供が受けられる教育の機会と質が、家庭の収入で左右されてしまうことで生まれる。

ひとえに教育といっても様々だ。たしかに学校教育が担うところは大きいが、これはあくまでその一つに過ぎない。学校教育のほかには、美術館や動物園などの施設や地域による社会教育があり、また各家庭における家庭教育がある。傾向的には高収入の家庭ほど生活に余力があり、子供は健康に生活し、学校で学びに集中でき、家で会話をし、あるいは習い事に通い、休日に外界と触れることができる。もちろん例外もある。低収入の家庭はその逆を考えればよい。もちろんこれも例外はある。

問題は、こうして生まれた格差により子供世代がまたさらに格差を広げていくことだ。現実は残酷である。鳶が鷹を生むこともあるが、大抵蛙の子は蛙というわけだ。親がよっぽど身を削って教育機会を充実させない限りは、あるいは子がよっぽど熱心に学習意欲に燃えない限りは、なかなかこのスパイラルから抜け出すことは難しい。そして先ほどの言葉を使えば、「必要のないことの必要さ」がわからない人は、そのうち高等教育に飽き足らず初等・中等教育まで否定しだす。やれ三角比がいらないだの、ありをりはべりが何の役に立つだのと。この多くは、それ以上のことにアクセスできなかったがための、想像のできなさに起因しているだろうと私は考える。自分の歴史を守るのはよいが、それによって他者の足を引っ張ることがあってはならないと思う。特に、自分より若く未来ある人間の足をだ。

(まったく、無駄だ無駄だというのなら、およそこの世のすべては無駄事であるからとっとと御髪を下ろしてくれてよいのだが。)

 

とかく必要なのは、こうして保護者の収入やその一存で子供の未来が決定されてしまう状況をなくすことであり、社会としてすべての教育の機会を保障することだ。もちろんそれには家庭教育も含まれる。いくら学校や施設でその機会を保障したところで、家庭で弟妹の世話に追われて生活がままならないでは本末転倒だからだ。全くの理想論であることを承知で言えば、我々が社会として真っ先に教育すべきは保護者にあたる大人たちのほうであり、またその生活を保障している雇用者たちであるといえるだろう。私たちが考える以上に子供は貪欲である。もちろんすべてとはいかないが、彼らがまっとうに機会を与えられれば、それなりに興味を示すものも今より多くは見つかるはずだ。

別にそれで形にならなくったっていいのだ。仕事につなげようなんてもってのほかだ。

ただ学ぶだけでいいし、なんなら学ばなくたっていい。

選べるという状態に価値があり、選んだという結果に価値がある。

 

 

こうやってたまに真面目な話をすると無性に酒が飲みたくなるのだ。

懐古餅

どうも人間の脳みそちゃんはわりとふんわり生きているらしく、勝手に記憶を改竄したり、そもそも何もなかった部分に新しく過去を作ったりしてしまうものなのだという。なかなかのドジっ娘である。

かくいう私も、幼稚園で工作をしていた時に壁際のロッカーの上に置いてあったテープカッターからセロハンテープを切ろうとして、テープが切れずにそのまま本体ごと自分のほうへ落としてしまいケガをしたことがあったのだが、実はこれは私ではなく私の兄の記憶だったということがある。

 

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何が起こったのかと言うと、どうも幼い頃に兄の体験(恐らくこういうことがあったから危ないぞ、という話)を詳細に聞くあまり、自分の記憶と合体してあたかも自分に起こった出来事かのように脳が整理してしまっていたらしい。事実、落ちてきたテープカッターでできたという大きな傷を手首に持っているのは私ではなく兄なのだ。この事実を私は10代も終わろうという頃に知った。長い長い勘違いだった。と言ってしまえればことは簡単なのだが、それでも私の頭の中には、手を伸ばしてやっと届く高さのテープカッターの底面がずりずりと手前へ動いてくる感触が今でもスローモーションでまざまざと刻まれているのである。

だがこれは起こったことではない。私に起こったことではない。

にもかかわらずこんなにも、私にとっては事実なのだ。

今ではそういうものだとして整理ができてはいるし、モノホンの事実関係を知る前よりも明らかに当時(起ってはいないが)の感覚は薄れてはいるのだが、それでもぬぐいきれるものではないので、もうこうなったら、そういうことが起こり得た並行世界と交信してしまったのだということにしておく。そのほうがオタク的にはかっこいいからな。ジョン・タイター的なあれかもしれんだろ。(ここがジョン・タイターを知らない世界線でないことを祈る)

 

さて、こうして過去を作り替えるというのは何も私に限った話ではない。きっと大なり小なりみんながやってしまっていることだろうし、それは無意識的だったり意識的だったりもするのかもしれない。

年がら年中同じ武勇伝を延々と語るいわゆる老害の類を考える。きっとその瞬間がその生涯の中で最も輝かしい時間だったに違いはないが、それにしたってほとんどの人間の生涯は、それほどドラマチックにうまくまとまったものではない。だから改竄する。より魅力的に。より劇的に。自らの生涯にあてた一点のスポットライトにだんだんとミラーボールが近づいてくるのだ。舞台はもはやディスコの様相である。そうしてあまりに飾り立てられた舞台を前に、残念ながら人間は幕の引き方を知らない。なぜならそれ以上の一点がもう生まれないからだ。もう光を当てるのに精いっぱいで、みずから輝きを生むことをやめてしまったからだ。

しかし輝きを生むとは言うが、これはあくまで結果の話だ。心血を注ぎ精を尽くし打ち込んだ何かがまずあり、その事実に対して光が生まれるのだろうと思う。その意味で、懐古厨というのはさみしい言葉だ。確かに、一心に打ち込むに値するものが見つからないという言い訳も成り立つだろう。昔の物のほうが良いものだったのだと。あれ以上の物はないのだと。しかしこれは、新しい事物に対して全霊をかけるほどの体力がないことの裏返しでもあろうと思う。

その過去の輝きは身の回りから遠くまでいろんなものに手を出してその中でつかんだものではなかったのか。ではその後己は何かに手は伸ばしたのか。大事に大事に身の内の思い出を撫でていただけではないのか。

などと、そうやって詰めていくとダメージを食らうのは私自身ではあるのだが。

別に過去は悪くないし懐古も悪くない。ただそうやって原型を失いつつある舞台を何度も演じさせられているのだとしたら、脳みそちゃんが不憫でならない。

かつて何もなかったあなたがその偉大な過去を得たのだとしたら、それを得たあなたは、より遠大な素晴らしいものに出会えるのではないかと、私はそう思うのだけれど。どうだろうか。甘いだろうか。

 

まあたとえそうだとしても、脳みそちゃんは甘いものが好きだというしな。