病餅
少し前から難病にかかった、と父が言うので身構えていたが、こういう名前の病気でこういう状況で今はこういう治療をしている。まあ大丈夫だ。なんて冷静にいうものだからホォンと思ってしばらくさほど考えないふりをしてきたが、このほど年末年始の集まりを中止すると向こうから言ってきたものだから、なにやらざわりとしてきちんと調べてみるに、まあまあ結構な難病だということがわかり、やにわにKIMOCHIがバッドに入ったところだ。なぜすぐ調べないのだ。具体的な余命が出て来たぞ。
実際大丈夫なんかと電話で聞けば、まあ体調に変わりはないし薬は適合してちゃんと飲めているし、運動はできないが魚釣りはできるというので、まあ、大丈夫といえば大丈夫なのだろう。
あの父が大丈夫だというのならそれはそうだ。父はそういう人だからだ。
ただ根治ができない進行性のものを薬で抑えているという状況なので、これは確かに少しの生活の変化にも気を遣わねばならんし、この時期はただの風邪ですら怖いしで、まあこちらの心中もあまり穏やかではない。
とはいえ本人がこういう態度でいるのだし他に出来ることもないしで、どうしたもんかと腕を組み膝を組みしておるが、結局のところ人はいつか死ぬし、やはりいつか死ぬ。
父も私も、未だ齢を数えぬ息子もいつかは死ぬ。
だから問題はその死をどう待ち受けるかということに尽きる。
どう向かっていくかといってもいい。そのほうがポジティブだしな。
そしてやがて迎えるその時に何が人の隣にあり、何が人の手に残るのかは、決してすべてとはいかないまでも、ある程度は人の手に委ねられているのだ。ある程度は。
よくよく考えればこの父は、告知以前から自分で終活ノートと称して家と自分にまつわる諸々を息子らに説明するため文書にまとめておった。覚悟ができているのかは定かでないが、とりあえず起こるかもしれないことに準備だけはしておこうというのが、なんとも技術系の人間らしい。
とはいえ少なくとも父は日々母校のOB会報を作ったりなにやら謎の発明品を試作したりと忙しく過ごしているようなので、まあ、私の目にはまだまだ死ぬ気はなさそうに見える。
それでいい。それがいい。死ねねえよなそんな簡単に。
息子はこないだ10か月になった。
僕もまだ死にたくないよ。
がらくた餅
がらくたが好きだ。好きすぎてあまり理解されない。
逆に聞くがみんな正気なのか? がらくただぞ。そんなもの、いいものに決まっている。
まずもって名前がいい。
がら、としていて、くた、としているのだ。
いい×いい=とてもいい、というわけだ。
ありがとう、わかってもらえて幸いだ。
がらくたには物としての歴史がある。辿ってきた道筋がある。その果てに、こんな、よくわからないごみという扱いをされて、野に蔵に打ち捨てられているわけだ。
しかしよく考えてもみてもらいたいが、こんなの二次元の世界だったら酒場で管を巻いているがあとで仲間になる古参兵か、在りし日の経験から旅路に重要な助言をくれる村はずれの古老だ。そんなもの悪いわけがない。いい加減にしてくれ。
みんな目を覚ますんだ。
がらくたはいいぞ。大変いい。
鉄に錆び、木には擦れ、布にも褪せなどあればなおいい。
その点プラスチックは経年劣化ですでに形が崩壊してしまってから見つかるものも多い。これは残念だ。なんとなれば、プラスチックという素材ががらくたという形態に耐え得るものではないのだ。この実用に特化した太く短い製品としての生は潔くもあるが、情けなくもある。
もう言ってしまえば生き急ぐ軟弱者である。がらくたと成り得るべく物としての厚みがないのだ。今後の身の振り様を考えたほうが良い。
みんなはどんながらくたが好きだろうか。私は木の道具が好きだが、鉄もまた好きだ。そのため木と鉄が組み合わさったがらくたが見つかるともう走り出したくなる。何度でも言うが、いい×いい=とてもいい、だ。
みんなも走り出したくはならないものか。がらくたはいいぞ。これはとてもいいものなんだ。
なんならがらくたはいいという主張のためにこんなものまで作った。
まだ少ないが順次がらくたを増やしていきたい。
ポケ餅①
小学校に入ったころだかにゲームボーイの緑色のを買ってもらって、以来ずいぶん遊んだものだ。緑色が好きだったのでポケモンも緑を買ってもらったが、正直赤のパッケージのやつがカッコイイと思っていたので、緑のカセットの裏に油性マジックでリザードンを書いた。選んだのもヒトカゲだ。
そんなこんなで緑→金→ルビーと3代続けてプレイしたものの、そのころには周りの熱もなんだか冷めてしまって、借りたサファイアを使ってルビーで図鑑をコンプしたのをきっかけに、とんと飽きてしまった。なんだか燃え尽きたようだった。
ところがそんなポケモンにこの度十数年の時を経てまたドハマりする羽目になった。
ので、そのいろいろを書く。
なぜ各シティのジムリーダーたちはこぞって同じタイプのポケモンを使いたがるのか。そのジムトレーナーたちもしかり。あの世界でもポケモンという生物の性質はみんな理解していて、こうかばつぐんや急所を狙って戦いを考えるはず。それをなぜわざわざ不利になるようなパーティーを組織するのか。ということを考えた。
①ジムバッヂによるチャンピオンリーグ挑戦制度
ポケモンマスターになるためにはその地方のリーグでチャンピオンにならねばならないが、その挑戦権として機能しているのがジムバッヂだ。挑戦者としてふさわしい者を段階的にふるいにかけていく目的で、レベルの差がつけられているのはまあわかる。ではなぜわざわざタイプ別にするのか。恐らくはこの制度、もともとは「より強いトレーナーを養成する」ために構築されている。すなわち、一点特化ではなくあらゆるタイプに対応できるパーティーを最終的に組織”させる”ためのシステムだ。たとえば対ジム戦闘用にポケモンを用意したとしても、その練度は次には役に立たないかもしれない。かといって時間をかけて育てたポケモンには当然情が湧いてしまうから、パーティから外しがたい。タイプ別のジムバッヂは、こうしたジレンマの中で、勝利へ向けて最善の選択を最短でつなげていくことができるか、という命題が課せられたシステムなのではないか。
②そもそもジムリーダーってなんなんだ
このようなシステムだと考えるとじゃあどういう人間がジムリーダーになるのかと。トップを目指す挑戦者、というよりもリーグを運営するひとつの歯車になるわけだから、ちょっと勝手が違う。もちろん実力を認められてその地位に就くのだろうけど、単独タイプでは複数タイプを併せ持つチャンピオンやその挑戦者にストレートで勝つことなどどうしてもできない”はず”だ。
このことからジムリーダーにはいくつかのパターンが考えられる。
一つ目は、もともとプレイヤーと同様に挑戦者の立場として複数タイプを使い分けており、上位まで上り詰めた実力を買われて、特に扱いのうまいタイプのジムに推薦される実力派挑戦者パターン。
二つ目は、そうしたジムリーダーのもとでジムトレーナーとして単一タイプの扱いを学び推薦される、堅実出世パターン。
三つ目は、そもそも単一タイプが好きで好きでしかたなくてタイプ相性とかうるせえしらねえFINAL FANTASYという感じで己の道をひた走り、それでいてその他の挑戦者格よりも頭抜けた実力を発揮するため推薦される天才狂人パターン。
まだあるかもしれない。
とにかくいろんなルートでタイプを背負うことになったジムリーダーは、ひとつには挑戦者をふるいにかけ・通過するものを強くするという存在意義があるが、彼らとて皆が単なる歯車ではなく、トップを目指すポケモントレーナーとしての矜持を持ち続ける者もいるだろう。そうしたリーダーにとっては、挑戦者のように計算ずくで様々なタイプを所持するのではなく、リーダーとして任されたタイプの中で最強を実現し、単一タイプでありながら他を圧倒するということがもう一つの命題となる。
彼らの実力をもってすれば、もし挑戦者と同じ条件で複数タイプを使い分けてよいというならはるかに上回る成績を残せるはずだが、それは自分のジムリーダーという地位や、自分を形作ってきた過去を捨てて挑戦者に戻ることになる。
特にチャンピオンになれずジムリーダーになってしまった者にとって、そのように元のレールに戻るのは屈辱でしかないだろう。「そうまでして勝ちたいのか」という外野の声が怖いのではない。「そうでもしないと勝てないのか?」という己への問いかけに、彼らははっきりと「否」と答えられる、真に強いトレーナーであるからだ。だから彼らは同じ一つのタイプを使い続ける。その道での鍛錬に絞って、己を練り上げていく。自分だけの最強のポケモンたちで、挑戦者を、そしてチャンピオンを圧倒することを、決して夢などとは思っていない。ポケモンとの間にもそうした信頼関係がある故、相性が悪かろうが彼らは果敢にボールから飛び出していく。何より、己のパートナーに応えたい、このパートナーと勝ちたいという思いが、彼らをリーグから離さないのだ。
だからジムリーダーはかっこいいのだ。
そういう話である。
向井餅
向井秀徳語検定1級試験問題 解答例
日本国憲法前文翻案
俺は、酒毒に浸食された脳における恥のアーカイブスをダビングして歩き出し、俺と妄想人類諸君のガキのために、犬猫畜生との意味の分からん言葉による意思の疎通と、冷凍都市全土にわたって暮らしのもたらす生の実感を確保し、なんやら厄介者の粗相によって再び憤激の銃弾が放たれることのないようにすることを決意し、ここに俺がMATSURI STUDIOに存することを貴様らが今までに経験したことのないような大声で俺は放ち、このKIMOCHIを思い出す。ジャッ。そもそもあの娘の笑顔は、ジャマイカ煙草をキメながらの殺人的なジョークによるものであって、その記憶はいつか妄想に変わり、その一昨年の事件は誰もがこれを覚えておらんし、その娘の入れ墨だけがフラッシュバック現象。これは17歳の俺のOMOIDEであり、このセンチメンタル過剰は、かかるOMOIDEに基くものである。俺は、これに反する一切の厄介者、インテリゲンチャ及び名前も知らん女を排除する。ダッ。
俺は、そんな平和な俺の平和を祝う必要はないし、変態人類のKANKEIを支配する性的衝動とUNUBOREを深く自覚するのであって、新宿革命記念公園通りの斜め45度の傾きの坂道を後ろ向きに下りながら俺はとっても必死に荒ぶり、ボールにいっぱいのポテサラと吟醸酒を保持しようと決意した。ウン!俺は、大皿に乗ったカニを食いたいし、陰口叩いて留飲下げとるやつらや徒党を組んで安心しとるやつらや、さりげなく行われる裏切りや自意識過剰と自尊心の拡大を冷凍都市から永遠に除去しようと努めとる深夜2.5時において、そらもう獣のようなスタイルを占めたいと思っとる。わかっとる。それはわかっとる。俺は、行方知れずのあいつが、繰り返される諸行無常の繰り返しから免かれ、どっかさびれた地方都市の暗がりの街にひっそりしけこみ、酒場に入って生存する権利を有することを確認する。する。する。
俺は、いづれの若者も、薄っぺらい半透明な関係を漂流し続けることのみに専念して通じ合わないで触れ合わないで笑い合うことをしてはならないのであつて、裸足の季節は、刹那的なものであり、このキセツに従うことは、少女だったころのあの恋っぽい気持ちを維持すると信じとるが、俺と貴様とは関係ない。俺と貴様はKANKEIない。
俺は、なぜ、そこまで全力をあげて、この崇高な理想と目的を達成することを誓わなきゃいけんのか、俺にはようわからんが。すごい、それは、すばらしいこと。かもしれませんね。SAMURAI。
パン餅
何かで気持ちがズンと沈んでいかんともしがたさが自分の外にまで漏れ出ていると、たいてい妻が「家のことはいいから、なんでも好きなもの買ってきて元気出して!寄り道してきてもいいし」と気を遣って外に行く口実まで作ってくれるのだが、私はというとそう言われて好きなものを買ったり好きなところへ寄ったりして帰れたためしがない。
沈んでいるときはなにをやってもダメだ。本当にダメだ。すべてが灰色だ。だからまっすぐ家に帰る。
今日は別の用事もあったので外に出ることはわかっていたのだが、肩を落として家を出ようとすると、妻が先の言葉を翻してこう言った。
「そうだ、パン買ってきて。パン屋さんで。明日の朝の食パン。あとは今日のお昼の分も!」
妻にはこういうところがある。
しかしこと今日においては、この提案に救われることとなる。
用事を済ませて午前11時ごろに近所のパン屋に到着した。自分のほかに客はいない。久しぶりにトングを持とうとした矢先、消毒用のアルコールらしきポンプが目に入る。もう食傷気味ではあるのだが、まあやるにはやる。もうこの歳になると選びながらカチカチと鳴らすことはないけれども、それでもトングとトレーを手にした時の高揚は衰えないものだ。居並んだ獲物を前に目をらんらんと光らせる自分がいるのがなんとなくわかる。
思い返すに昔から私はくるみパンが好きだ。
小学校のころ、母がパンを買うというと必ずくるみパンを含めてくれるよう頼んでいた。くるみの香ばしさともちもちの食感もさることながら、くるみパン独特のあのふくらみと照りがたまらなく好きだった。今でもコンビニでパンを買うときは必ずと言っていいほど手札に加える。
またカレーパンが好きだ。これはもうカレーが好きなのだから仕方がない。周囲の衣がカリカリなのがいい。でも具が少ないとかなりへこむ。あのねっとり感はかけがえがない。
ベーコンエピも捨て置けない。当時はそんな複雑な名前は覚えられなかったのであのベーコンのかたいやつ!!と呼称していたのだが、習い事から帰るに迎えの車の中でもそもそとかじっていたのを今でもよく覚えている。あの先っぽの噛み応えはなんともいえない。
あと名前はわからんがチーズの立方体がごろごろ中に入っているやつもよく食べていた気がする。チーズもおいしいからこれも仕方がない。
中学高校と少し自分のお金で食べ物を買うようになると、部活の練習試合帰りに寄り道できるパン屋でたまにクロワッサンを買った。面白いことにそれまで食べていた母の買ってくるクロワッサンはほとんど全部ふにゃふにゃで「こんなもんか」というパン代表だったのだが、その店のクロワッサンは表面の何層もがサクサクとして、塩味だけでなくほんのり甘くて、それはもう衝撃を受けた。一つ180円。GEOしか娯楽のない田舎の中高生にとってはパン一つのために払うにはそれほど安い値段ではない。しかし食べた。零れ落ちて袋に残った一片に至るまで、食べた。
同じ店でクイニーアマンも知った。言わずと知れたパン漫画の金字塔『焼きたてじゃパン』を当時読んでいた関係で初めてその名を知ったのだが、まずそれがきちんと現実に存在していることに感動したものだ。練習試合の後は何かその時の気分で一つ選び、あとはクロワッサンとクイニーアマンとミルクでイートインして優勝。部活は負け続きだったのでここで巻き返しを図っていたのだ。たださすがに懐が心もとなかったので、のちに昼食代としてきちんとこの分は支給されることとなった。
大学生になると学内のパン屋に通った。特に何を買ったか覚えていないところを見ると、恐らくは前述のようなおきまりのパンをいつもかじっていたのだろう。しいて言えばデザート替わりの甘いパンのバリエーションが増えた。デニッシュ系は誠に宝箱だな。割愛する。
あとこれは恥ずかしい話だが、働き始めてそれまで以上にまともに自炊するようになって、やっとバゲットのうまさに理解が及んだ。バゲットはもとより、いわゆる味つけや具のないベーシックな様々なパン全般だ。だいたいこれまでそういったパンを買うのは、お米がなくなったときに場しのぎとしてスーパーで安いのを買ってくるぐらいのものだった。半額のもので十分だった。だがパン屋で買ってみるとどうだ。世界が違う。志摩スペイン村とスペインぐらい違う。味はシンプルなのになんにもつけなくても食べられる。どんどん食べてしまうのがもったいぐらいだ。
いやまったくパン屋というのは恐ろしい。
そんなこんなで今日訪れた近所のパン屋だが、住宅街に唯一のパン屋なせいか、価格設定がやや高め。たいていは200円以上するし、高いものだと小さくても300円台にもなる。しかしパン屋を歩くのに値段を見ていては気分が下がるばかりだ。そんなことを気にしていてはいけない。働いているのは俺だ。俺の金だぞ。パンぐらいでなんだオラ。このくらいの意気がないと、社会人としてパンに向き合うことはできない。
残念ながらこの店にはくるみパンはない。しかしカレーパンがある。衣は大き目、売れ残ったパンを削って衣にしているのだろうか。ザクザクとした食感が見るだに想像され、トレーに乗せる。フランスパン生地のクロックムッシュがある。これは以前食べて美味しいことをもう知っている。乗せる。そうだ妻はサンドイッチを食べたい食べたいといつも言っているから、とショーケースに振り向こうとしたが、途中でバゲットと目が合った。悩んでいるとその下からなんだかよくわからない大きなパンが見上げている。湯種ブールと書いてある。ポップにはなんだかよくわからないがうまそうな説明文がある。乗せる。そうこうしていると焼きたてのパンが運ばれてきた。値札を乗せるのを後ろからまだかまだかと待ち構え、店員が離れるやすぐさま確認した。塩バターパンに、ハーブとチーズの…もう読む前に二つともトレーに乗っている。ついで甘いものをと思ってデニッシュコーナーに振り向いたが、一回転して先ほど目の端に映っていた固めのパンに向き直る。ドライフルーツが練り込まれたシリーズで、よく買うのはクランベリーとクリームチーズのものだが……いちじくとあんずとクリームチーズ。ほおん。なるほどね。わかってるじゃん。乗せる。
いつのまにかトレーがいっぱいになってしまったので、他は諦めてレジへ向かう。
と、そもそも何を頼まれていたのか思い出した。
四つ切の食パンを1斤流れるように手に取る。
会計は全部で1600円だった。
車に戻ると、手にした袋から芳醇な香りが立ち上った。ああ。焼きたてだ。これは早く帰らねばならない。すぐ食べねば。これは。口元を緩めながら家路へ急ぐ。
かくして、焼きたてのパンにより私の沈んだ気分はだいぶん上へと押し上げられることとなった。かほどにパン屋のパンは馬鹿にできない。
実際選んでいるときはどうしても価格に目が行ってしまうのも詮無いことだが、それを選んでいる時の高揚感と、実際に家に持って帰るまでの期待感と、焼きたてを口にした時の幸福感とは、世の一切のやるかたない憤懣を解かして余りあるようだ。こんなに楽しんでこれだけの値段?嘘でしょう?しかしそう言えるのもきちんと買って食べてからのことなので、まだまだ自分も未熟である。
鑑みるにパンにはパン以上のものがあり、パン屋にはパンを売る以上のものがある。これはもはや創作的行為だ。パン屋はすごい。商売人でありエンターテイナーだ。エンターテイナーであり職人だ。何物にも代えがたい。パン屋こそがハイパークリエイターなのではないか?少し高くっても店構えがオシャレじゃなくてもうまけりゃいいんだよ。そうそう。我々は地域の文化拠点としてこれからもパン屋を守っていく必要があるな。
と、同時に自分ももうちょっと頑張ろうと思った。
また美味しいパンを食べるために。そういう話である。
子餅
「膝に矢を受けてしまってな…(だから戦場には戻れない)」
という言葉は、物理的にケガをしたのではなくて、矢を受ける=膝をつく=求婚(結婚)するという意味で、つまり自分は妻子を持つ身なのでもう危険なことはできないよという意味になるのだと、どこかで読んだ。
まあどうせTwitterだろう。なんかオープンワールド系のゲームのセリフだった気がする。
かくいう自分も膝に矢を立て続けに受けて、最近はあんまり危険なこともせずライオンキングの冒頭よろしくシンバの顔に保湿クリームを塗ったり抱え上げて「ハンニャーーーー↑イイ↓ヤアーーー↑」と叫んで遊んだりしているのだけれども、まったく子どもというものは実際に持ってみないとわからないことがたくさんあるので今日はそれを書く。
1.やわい
まず赤子はやわらかい。やばい。やわらかすぎてこわい。くたくたのぬいぐるみの中にゼリーが詰まっているようなもの。意味が分からない。抱いたことないけどたぶんネコといい勝負なので、毛が生えていたら容器におさまるかもしれない。こんなん初見で抱ける人間はネコを飼ったことがあるかサイコパスかのどっちか。
2.おもい
頭が重い。お前こんなに頭重いのに首こんなんだったらダメだろ。なあ。作り方間違えたテディベアみたいになってるよ。それか頭部の着せ替えパーツが重くなりすぎたfigmaだよ。SDガンダムじゃないんだから取れたら困るのちゃんとわかってる?これで破損の保証はないとかユーザビリティーに欠けると言わざるを得ないよ。
3.でかい
でかいよ。声でかい。マジで。顔近づけてクリーム塗ってるときとか、肩口で抱いてるときとかにさ、突然ア‶ァ‶ーーーーー!!!!!!って言われたら耳痛くなるじゃん。耳って実は結構大事な器官なんだけど、そういうの小学校では習わなかった系?そっかーー今度から気を付けてね。
4.くさい
うんこ。うんこよ。「生まれたてはしばらく赤ちゃんのうんちっていい匂いなんだよ」って言ってたのなんだったんだよ。一瞬だったぞ。くさいよ。屁でもにおいで目が覚めるよ。
あとゲボよ。乳しか飲んでないからゲップと同じような甘い匂いしかしばらくしなかったよね、それが最近完全に胃液のにおいがするよ。そこはアップデートまだしなくていいんだよ。仕様変更がいつも急だな君は。出す側と受ける側でまだコンセンサスが取れてないよ。
5.おもい
さっきも書いたな。もう全部重い。米だよ米。なぜ夜中に米を抱えて上下運動をせねばならないのか。小一時間も米を揺らすとねえ、二の腕と肩の筋肉が死んでしまうんだよ。あと手首が腱鞘炎になるよ。背面部は全滅だよ。
6.えらい
赤子はえらい。やばい。成長速度がやばい。大人はザコ。くそザコ。だって1週間あっても全然成長しねえもん。その点赤子はえらい。うんこ出しすぎ。体重に対するうんこの総量比が大人を凌駕している。100点。より多くのうんこを出すものがえらいので、赤子はえらいのだとはっきりわかる。無限。無限億点。
7.かわいい
君かわいいね。どこ住み?てかLINEやってる?これは完全に脳みそを特殊な技術でハッキングしているとしか思えないんだけれども、絶対かわいいと思うように体ができてるのはやばい。子宮の中でハッカー養成プログラミング講座でもやってたんか。なにをやってもかわいいじゃんよ君。バグだろ。親に向かってプロアクションリプレイ使うのやめろ。実は中にちっちゃいおっさんが乗ってて操縦してるとかじゃない?ほんとに?絶対どこかで気を抜いてかわいくなくなってる瞬間があると思うんだけど。
いやいつ見てもかわいいわ。
さては地上に舞い降りたエンジェルだな?
もううんこでもゲボでもなんでもすればいいよ。
まだおしりにかぶりついていないの自分でも結構よく我慢していると思う。
えらいね。えらいんだよ。
書いてて意識がもうろうとしてきた。
育児には体力が必要なのにその体力をつけるための時間と気力を確保できないまま日々が経過していくので、これはもう赤子のデザインがおかしいか社会のデザインがおかしいかなんだけれど、こんな初期ピカチュウみたいなモンスターに対してデザイン悪いよとか言えるわけないので、全部社会さんサイドの問題だよ。在宅勤務を止めてくれるなよ。これすごいよかったのに。
最近はリングフィットアドベンチャーを再開して筋肉を取り戻さなければまずいなあ、まずいよなあ、と日々考えながらポケモンをしている。日々考えてはいるんだ。
うん。
はい。
じゃあ私ちょっとおむつ替えてくるから。
透明餅
気づいたら俺はなんとなく夏だった
この向井秀徳の『透明少女』の一節を思い出すのは決まって夏の盛りなのだが、このようにいつのまにか過ぎてしまった節目を後ろ目に見送るようなときは、それが夏でなくともやっぱりこの言葉を思い出してしまう。
それで今回は何かといえば、2020年がもうとっくにひと月過ぎたというわけである。いやまったく困った。怒涛である。かくして季節は透明になって過ぎ去っていった。年の瀬には何か抱負を決めたような気もするし、何も決めていないような気もする。年越しそばを食べたような気もするし、食べていないような気もする。
去年今年貫く棒の如きもの
俳人高浜虚子は、年の瀬にあって過ぎ行く月日と新たなとしつきを地続きのものとして感得するこのように素晴らしい句を詠んでいるわけだけれど、こと私に至ってはその棒すらも透明になってどこかへ行ってしまった。なんだ透明な棒とは。いくら冬だからってマロニーちゃんで貫かれている場合ではない。なんなら12月からタイムリープである。師走ではなく少女がかけていたのではないか? そんな無暗に走らなくてもよい。
とまあ、そういうことに思い至ったのでこの先は季節を透明にすることなく過ごしていきたいという次第だ。しかし先日節分も終わったということは、やれやれもう春が始まっているのか。
さて話は変わるが、Twitterのタイムラインにオタクが多いのでFGO関連のニュースがたびたび流れてくる。どうも旬なのは清少納言らしい。いや実によくできたデザインだ。どこぞのオタクが考察・解説してくれており非常に助かる。(しかも声はファイルーズあい。そのうちサイドチェストとかしてくれないだろうかな)
で、私としては清少納言の配色に着目して話をしたいわけだ。(何番煎じか知らないが私がしゃべりたいのだから黙って聞いていってくれ)
清少納言といえば「春はあけぼの」でおなじみ『枕草子』の作者であるわけで、どうもデザインには枕草子の有名な章を象徴する意匠がいくつも見受けられるらしい。が、ここではそれについては割愛する。
問題は色である。これを古典とオタクの知識で解いていくわけだが、正直みんながどれくらいこの知識を共有してくれているのかわからん。ので、ここに書く。
清少納言の色は青、赤、白、黒の大きく四色で構成されている。
四つといえば先ほど例に挙げた「春はあけぼの」から始まる四季がある。
青春、という言葉を聞いたことのない人はいないだろう。しかし他の季節はどうか?実はこれには続きがある。
ここで冒頭の『透明少女』を聴き習わしている人は最初の歌詞を思い出してほしいのだが…
「赤い季節到来告げて 今俺の前にある」
と、この曲は始まる。そして「気づいたら俺は夏だった」という歌詞につながっていくわけだが、そうするとこの「赤い季節」が何ものであるかは、まあこうやって説明せずとも自然とわかってもらっているところだろう。夏である。
ここまで来たらあとは簡単だが、春は青、夏は赤、秋は白、冬は黒、これを並べて青春、朱夏、白秋、玄冬。青春時代が人間のまだ若々しい青年期を言うように、あとに続く言葉はそれぞれ血気盛んな壮年期、落ち着きのある熟年期、死を待ち受ける老年期を表しているという。詩人の北原白秋もここからとったとかなんとかいう話も……なんかたしかどっかにはあったよ。うんうん。たぶん。
ここで別のことに気が付くオタクもいようと思うので、次は色の漢字に着目してもらいたいが、
青
朱
白
玄
ときたらもう二文字目に季節なんかじゃなくて別の漢字を入れたいはず。
すなわち、四神であるところの青龍、朱雀、白虎、玄武。
この霊獣どもが出てくるとなると、今度は方位線を引きたくなってくるよなあ!オラワクワクしてきたぞ!!
ところで、だいたいなんで春が青で、夏が赤なのだ?冬が白ではだめなのか?という疑問が出てくるかもしれない。ひとまず次の図にここまでの内容を示す。
ざっくり書くとこんな感じだ。Wikipediaのほうがずっと詳しく書いてあるからもうそっちを見るといい。ペイント疲れた。
先ほど出てこなかった字がそれぞれの枠に入っているのに気が付いただろうか。すなわち、木・火・金・水、あとこれに土を足した、木火土金水の五行が、それぞれにあてがわれている。
東は木行、日出、始まりの方位。春の芽吹きに象徴される若々しさ。故に青。
南は火行、ファッキンホット。夏の灼熱、燃え盛る火に象徴される激しさ。故に赤。
西は金行、日没、終わりの方位。秋の実りを刈る刃に象徴される確実さ。故に白。
北は水行、ファッキンコールド。冬の極寒、生死を左右する水の冷厳さ。故に黒。
そして中央に、土行。なんかこれは四つの余りものの寄せ集めみたいな感じだ。ちなみに土行の色は黄。土の真下にあの世があるから「黄泉」と言うんだそうだが、これはまた別の話。「土用の丑」もこの土行から来ているので、知らなかったら一度調べてみてほしい。調べてもよくわからんから。
そんなわけで陰陽五行説にもとづいて季節に色があてがわれているわけだけれども、こっからは古典の話。
この四色が並ぶと、感覚的には「白の反対は黒」「青の反対は赤」と考えてしまいがちだが、図を見る限り違う。五行の説明からしても、この並び以外になさそうに見える。でもこれではなんだか気持ちが悪い。出来の悪い世界観設定でも見せられたみたいだ。
しかしこれは我々サイドの問題である。
じつはこの並びは、我々がそう思っていないだけで、ちゃんとそれぞれ反対の色を表しているのだ。
これには、そもそも「あお、あか、しろ、くろ」という色の語源は何なのか、というところを考えるとよい。
日本であお、と言えば古典の世界では有名だが、非常に多くの色を指した言葉だったという。色見本などみると、こんなのも青なのか?ねずみいろじゃないか?というものもたくさん含まれている。では「あお」とは何か?
答えは「あはし」である。淡い、つまりぼんやりとした色。だからこんなに指し示す範囲が広い。
では、その対角線上に位置する「しろ」はというと、これは「しるし」。今では印、記す、という言葉に残っているが、つまりこれはハッキリとした色。
続いて「くろ」は「くらし」、つまり暗い色。対する「あか」は「あかし」、つまり明るい色を指す。
このような理解でもう一度色の配置を見直すと、縦軸が明暗、横軸がコントラストを表現した、実に見事な対比構造になっているのがわかってもらえるだろう。
もちろん先に中国の五行があってからの日本語なので、これは単なる後付けや偶然かもしれないのだけれど、偶然にしてはできすぎた一致だ。昔の人は「あはし、あかし、しるし、くらし」という軸で色を評価してきたのだと考えるとそれもまた当時を思えて一興だ。
さてやっと話が戻るが清少納言だ。春はあけぼのから始まり四季折々のエモをとらえ筆に残した彼女がまとうのがこの四色というのがまた味わい深いのである。
先ほどの色の話と絡めてみれば、春は淡い色、曙の空にぼんやり紫っぽくたなびく雲のあーエモいことエモいこと。夏は明るい色、夜の闇にぽっかり浮かんだお月様、蛍の光が明滅しながら飛び違う様のこのエモよ。秋ははっきりした色、夕暮れの空に雁が飛んでいくのは、もはや影しか見えないけれど、それだけにくっきりと空に刻まれたことだろう。冬は暗い色、雪がいいのなんて当たり前だけれど、寒い朝に火桶に当たるの最の高、白い消し炭になっちゃうとワロシよね~ということは、黒々とした炭がぼやあと赤く燃えている様がよいのである。もちろん桶を囲う形になれば日も遮ったかもしれない。暗い中で火を見つめてはニヨリとしていたのだろうか!なんてね!
まあなんだか最後はこじつけっぽくなってしまったが。
清少納言がそうしたように、過ぎ行く季節にも見るところはあり、その象徴たるものがこの四色だということだ。
なんのことはなく透き通って見える景色にも色はあるはずで、おそらく見ようとしないから見えてこないのだろうと。そんなことをFGOの清少納言ちゃんの配色をみながら考えた。
いつのまにか通り過ぎてしまうことがないように、詩でも歌でも写真でも、なんとかして色を切り取って、過ぎ行く季節を自分のものにしてきたいと、そう思ったのであった。
まあ、FGOやってへんねんけど。
要するにオタクはキモいという話である。