幾望報

きねもておもちつけ

透明餅

  気づいたら俺はなんとなく夏だった

 

この向井秀徳の『透明少女』の一節を思い出すのは決まって夏の盛りなのだが、このようにいつのまにか過ぎてしまった節目を後ろ目に見送るようなときは、それが夏でなくともやっぱりこの言葉を思い出してしまう。

それで今回は何かといえば、2020年がもうとっくにひと月過ぎたというわけである。いやまったく困った。怒涛である。かくして季節は透明になって過ぎ去っていった。年の瀬には何か抱負を決めたような気もするし、何も決めていないような気もする。年越しそばを食べたような気もするし、食べていないような気もする。

 

  去年今年貫く棒の如きもの

 

俳人高浜虚子は、年の瀬にあって過ぎ行く月日と新たなとしつきを地続きのものとして感得するこのように素晴らしい句を詠んでいるわけだけれど、こと私に至ってはその棒すらも透明になってどこかへ行ってしまった。なんだ透明な棒とは。いくら冬だからってマロニーちゃんで貫かれている場合ではない。なんなら12月からタイムリープである。師走ではなく少女がかけていたのではないか? そんな無暗に走らなくてもよい。

とまあ、そういうことに思い至ったのでこの先は季節を透明にすることなく過ごしていきたいという次第だ。しかし先日節分も終わったということは、やれやれもう春が始まっているのか。

 

さて話は変わるが、Twitterのタイムラインにオタクが多いのでFGO関連のニュースがたびたび流れてくる。どうも旬なのは清少納言らしい。いや実によくできたデザインだ。どこぞのオタクが考察・解説してくれており非常に助かる。(しかも声はファイルーズあい。そのうちサイドチェストとかしてくれないだろうかな)

で、私としては清少納言の配色に着目して話をしたいわけだ。(何番煎じか知らないが私がしゃべりたいのだから黙って聞いていってくれ)

清少納言といえば「春はあけぼの」でおなじみ『枕草子』の作者であるわけで、どうもデザインには枕草子の有名な章を象徴する意匠がいくつも見受けられるらしい。が、ここではそれについては割愛する。

問題は色である。これを古典とオタクの知識で解いていくわけだが、正直みんながどれくらいこの知識を共有してくれているのかわからん。ので、ここに書く。

清少納言の色は青、赤、白、黒の大きく四色で構成されている。

四つといえば先ほど例に挙げた「春はあけぼの」から始まる四季がある。

青春、という言葉を聞いたことのない人はいないだろう。しかし他の季節はどうか?実はこれには続きがある。

 

ここで冒頭の『透明少女』を聴き習わしている人は最初の歌詞を思い出してほしいのだが…

www.youtube.com

「赤い季節到来告げて 今俺の前にある」

と、この曲は始まる。そして「気づいたら俺は夏だった」という歌詞につながっていくわけだが、そうするとこの「赤い季節」が何ものであるかは、まあこうやって説明せずとも自然とわかってもらっているところだろう。夏である。

ここまで来たらあとは簡単だが、春は青、夏は赤、秋は白、冬は黒、これを並べて青春、朱夏、白秋、玄冬。青春時代が人間のまだ若々しい青年期を言うように、あとに続く言葉はそれぞれ血気盛んな壮年期、落ち着きのある熟年期、死を待ち受ける老年期を表しているという。詩人の北原白秋もここからとったとかなんとかいう話も……なんかたしかどっかにはあったよ。うんうん。たぶん。

ここで別のことに気が付くオタクもいようと思うので、次は色の漢字に着目してもらいたいが、

ときたらもう二文字目に季節なんかじゃなくて別の漢字を入れたいはず。

すなわち、四神であるところの青龍、朱雀、白虎、玄武。

この霊獣どもが出てくるとなると、今度は方位線を引きたくなってくるよなあ!オラワクワクしてきたぞ!!

ところで、だいたいなんで春が青で、夏が赤なのだ?冬が白ではだめなのか?という疑問が出てくるかもしれない。ひとまず次の図にここまでの内容を示す。

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方位図

ざっくり書くとこんな感じだ。Wikipediaのほうがずっと詳しく書いてあるからもうそっちを見るといい。ペイント疲れた。

先ほど出てこなかった字がそれぞれの枠に入っているのに気が付いただろうか。すなわち、木・火・金・水、あとこれに土を足した、木火土金水の五行が、それぞれにあてがわれている。

東は木行、日出、始まりの方位。春の芽吹きに象徴される若々しさ。故に青。

南は火行、ファッキンホット。夏の灼熱、燃え盛る火に象徴される激しさ。故に赤。

西は金行、日没、終わりの方位。秋の実りを刈る刃に象徴される確実さ。故に白。

北は水行、ファッキンコールド。冬の極寒、生死を左右する水の冷厳さ。故に黒。

そして中央に、土行。なんかこれは四つの余りものの寄せ集めみたいな感じだ。ちなみに土行の色は黄。土の真下にあの世があるから「黄泉」と言うんだそうだが、これはまた別の話。「土用の丑」もこの土行から来ているので、知らなかったら一度調べてみてほしい。調べてもよくわからんから。

 

そんなわけで陰陽五行説にもとづいて季節に色があてがわれているわけだけれども、こっからは古典の話。

この四色が並ぶと、感覚的には「白の反対は黒」「青の反対は赤」と考えてしまいがちだが、図を見る限り違う。五行の説明からしても、この並び以外になさそうに見える。でもこれではなんだか気持ちが悪い。出来の悪い世界観設定でも見せられたみたいだ。

しかしこれは我々サイドの問題である。

じつはこの並びは、我々がそう思っていないだけで、ちゃんとそれぞれ反対の色を表しているのだ。

これには、そもそも「あお、あか、しろ、くろ」という色の語源は何なのか、というところを考えるとよい。

日本であお、と言えば古典の世界では有名だが、非常に多くの色を指した言葉だったという。色見本などみると、こんなのも青なのか?ねずみいろじゃないか?というものもたくさん含まれている。では「あお」とは何か?

答えは「あはし」である。淡い、つまりぼんやりとした色。だからこんなに指し示す範囲が広い。

では、その対角線上に位置する「しろ」はというと、これは「しるし」。今では印、記す、という言葉に残っているが、つまりこれはハッキリとした色。

続いて「くろ」は「くらし」、つまり暗い色。対する「あか」は「あかし」、つまり明るい色を指す。

このような理解でもう一度色の配置を見直すと、縦軸が明暗、横軸がコントラストを表現した、実に見事な対比構造になっているのがわかってもらえるだろう。

もちろん先に中国の五行があってからの日本語なので、これは単なる後付けや偶然かもしれないのだけれど、偶然にしてはできすぎた一致だ。昔の人は「あはし、あかし、しるし、くらし」という軸で色を評価してきたのだと考えるとそれもまた当時を思えて一興だ。

 

さてやっと話が戻るが清少納言だ。春はあけぼのから始まり四季折々のエモをとらえ筆に残した彼女がまとうのがこの四色というのがまた味わい深いのである。

先ほどの色の話と絡めてみれば、春は淡い色、曙の空にぼんやり紫っぽくたなびく雲のあーエモいことエモいこと。夏は明るい色、夜の闇にぽっかり浮かんだお月様、蛍の光が明滅しながら飛び違う様のこのエモよ。秋ははっきりした色、夕暮れの空に雁が飛んでいくのは、もはや影しか見えないけれど、それだけにくっきりと空に刻まれたことだろう。冬は暗い色、雪がいいのなんて当たり前だけれど、寒い朝に火桶に当たるの最の高、白い消し炭になっちゃうとワロシよね~ということは、黒々とした炭がぼやあと赤く燃えている様がよいのである。もちろん桶を囲う形になれば日も遮ったかもしれない。暗い中で火を見つめてはニヨリとしていたのだろうか!なんてね!

まあなんだか最後はこじつけっぽくなってしまったが。

清少納言がそうしたように、過ぎ行く季節にも見るところはあり、その象徴たるものがこの四色だということだ。

なんのことはなく透き通って見える景色にも色はあるはずで、おそらく見ようとしないから見えてこないのだろうと。そんなことをFGO清少納言ちゃんの配色をみながら考えた。

いつのまにか通り過ぎてしまうことがないように、詩でも歌でも写真でも、なんとかして色を切り取って、過ぎ行く季節を自分のものにしてきたいと、そう思ったのであった。

 

まあ、FGOやってへんねんけど。

 

要するにオタクはキモいという話である。